1/21 地震予知は言った者勝ち
しかも、予測のやりっぱなしだ。予測が、どの程度外れたかの検証など一切なし。だいたい30年間とか、60年間とかの話だから、言った当人も聞いた人も、30年後でも60年後でも大概死んでしまっている。責任が問われることは、まずない。だから好きなだけ「可能性」を垂れ流せば云い。
最初から「可能性に過ぎないから」と言う言い訳が、しっかり用意されている。責任の取りようも無い。言った者勝ちだ。
例えば、平成15年に中越地震があった。私が高校まで居た小千谷市が被害に遭った。しかし新潟県の中越地区で地震が起こるなど、日本中で誰も予測した者は居なかった。地震学者か地震研究家か知らないが、一人も中越地震の可能性に言及した人はいない。また、その後予測がなされなかったことに付いて、地震学会なり研究者間で、果たして議論されたか問題視されたのか、寡聞にして知らない。

そこで問題になるのが需要側が地震への恐怖を高めることは、合理的な経済行為かという判断だ。
結論から云うと、全く無意味だと思う。
地震対策を講じることは有意義だ。最新技術を駆使して最善と判断される地震対策・施策を講ずればいい。
しかし地震への恐怖を高めることは、全く無意味で、むしろ不合理だ。だって日本列島の中、何処に行こうと地震に会う確率は同じだもん。これだけ各学派で予測が異なり、異なる予測が錯綜している状況となると、結局、どの予測を信用するかという、「信心」の問題になってくる。確率とは、言い換えれば「信心」に他ならない。半か丁かの「信心」の世界だ。

精神衛生上は地震が来ない地を求めるより、地震の来そうな地を求めた方がいい。30年後か、60年後か、100年後か、300年後か、いつかは来ると思って割り切れば、かえって安心立命が得られる。覚悟が決まれば腹も据わる。大切なのは地震への恐怖感ではなく、全てを受け入れる不動心であることに気付く。
生きているうちに来るか、死んでから来るか、賭の上に乗って一生を送るのも一興だ。