服部さんのご両親が銃規制をアメリカ国民に訴えるとの新聞記事が載っている。人の子の親として痛い程その気持ちは分かる。私がご両親の立場でも同じことをするかも知れない。亡くなった子を思えば居たたまれないし、じっとしておられないだろう。
 しかし思うに、アメリカ人に対し銃を棄てろというのは、アメリカ人にアメリカ人たることを止めろと宣告するに等しいのでは有るまいか。それ程、銃はアメリカ人のアイデンティティに深く係わっている様に思える。

 勿論私はアメリカ人ではないので全てはアメリカ人に対する外国人としての推測だ。だから推測に過ぎないと言われればそれまでだが、アメリカ人は絶対銃を棄てない。棄てたらアメリカ人で無くなってしまう。銃とアメリカ人たる主体は、密接不可分の関係にあると断言して言い様に思う。アメリカ人がアメリカ人が有る為には銃は絶対に必要なのだ。
 アメリカ人が銃を捨てる日、それはアメリカ人がアメリカ人で無くなる時だ。たぶん最後の最後まで銃を棄てないアメリカ人は残る。
 彼こそはアメリカ人たるアメリカ人だ。彼は骨の髄からの白人至上主義者であり、清教徒キリスト教の唯一絶対主義者であり、男性優位主義者である。彼が世にあることは即ち神が認めたことであり、彼が彼自身であることを主張し続けることは、即ち神が彼を有らしめた事を主張する事であり、同時に彼を有らしめた神がいることを主張することである。
 彼が彼として存在するためには、彼は自身の存在をを主張しなければならず、不断に彼を有らしめた神の存在を主張しなければならない。彼はこの主張を守りきる為には銃を使用することも躊躇しない、否、躊躇すべきではない。躊躇したら彼が存在する事も否定されるし、彼を存在せしめた神の存在も否定する事になる。
 彼は彼と、彼の神の存在を証明する為にも銃を取らねばならない。銃を捨てる事は、彼と、彼の神の存在の証明を否定する事だ。その時、銃は、即ち彼の存在であり、彼の神の存在と同義となる。銃と、彼と、彼の神は、その時一体となる。これこそがアメリカ人がアメリカ人たることを確信する時であり、アメリカ人たることの至福に耽ることのできる世界だ。
 彼は、銃と、彼と、彼の神が一つになる喜びに耽って厭きることはない。彼は天国に行く時も銃を持って行くだろう。
 私がアメリカ人だったとすると・・・(かなり無理の有る想定だが)たぶん銃を棄てない。何となれば私はいつも死の誘惑から離れられないし、根はかなりの自分勝手であるからだ。撃つか撃たないかの選択に立たされた時は、私は自分が撃たれる危険も承知の上でも、おそらく撃つ方を選択するだろう。最後の最後まで砦に立て籠もって撃ち合って、撃ち殺されるまで撃ち続けるだろう。