マッカサーの使命は日本の伝統の徹底した破壊だ。伝統を失った日本人は日本人にして日本人に非ず。伝統の廉恥心も無ければ、伝統の和の心も無いし、伝統の潔さもない。最早アメリカとしては恐れるに足らず。ただの烏合の衆たる黄色い猿の集まりだ。
 マッカサーの指令に逆らえば公職追放を始め、まともな仕事にも就けなくなる。だから学校の教師たちはマッカサーの指示に忠実に従った。教師たちは自らを進歩的で民主的な教育者と自称し、子供たちを伝統から隔絶させ、我が儘で放縦迂愚な黄色い猿に作り変えることに熱中した。
 学校で教えるのは、本当に教育を高めることでも無ければ、本当に知性を深めることではない。いかに頭が良さそうに「見せるか」のレッスンであり、いかに物知りであるかのように「見える」かの演技だ。
 だから、如何にも本物の無垢材を使ったかのように「見える」ベニヤ板や塩化ビニールを使い、如何にも本物の床柱であるかのように「見える」合板を使うことは、学校で習った教師の教えに忠実であることになる。要は知識がありそうに「見えれ」ばいいのだ。

 テレビに次々出てくるコメンテーターだかを眺めるがいい、彼らは、いかにも悲壮な顔つきをして真実を知って以下のように「見える」演技に熱中している。彼らは口角泡を飛ばしていかにも物知りであるかの如くに「見える」演技に熱中している。

 そもそも学校からして教師こそはマッカサーの教えに最も忠実な「マッカサーの子供たち」である。その子供達から作られた子供達は、更に徹底してマッカサーの教えに忠実であることは論を待たない。
 彼らに日本人の伝統たる正直とか廉恥とか潔癖とか奉仕とかを前提に話をしても無駄だ。本屋に行けば店頭に並んでいるのは、如何に仕事が出来るようになるかの本ではない。如何に仕事が出来るように「見せる」かの本だ。出来る男に「見せる」ためになる本だ。
 おそらく新建材でいかに本物らしく「見せる」技術は、巧妙になることはあっても廃絶されることはない。
 マッカサーよ、アンタは日本人に勝ったのだ。教師を始めとする、教師の子供たちは全てアンタの、伝統破壊の前に屈伏し服従を誓ったのだ。

「新建材で建てられた住宅は、新築のときが美しさのピークです。歳月をへることでその輝きは見る見るうちに色あせ、化けの皮が徐々に剥がれていきます。ぴかぴかだったフローリングは引越のときに家具を軽くぶつけただけで、ひっかき傷のしたからベニヤ板が現れ、皺ひとつなく貼られていた塩化ビニールの壁紙はポスターを張り損じたことで、後が醜く残ってしまいます。さらには木でできていると思っていた床の間の床柱に誤ってたばこの火をつけたら、表面の木目が溶けてしまったなどという情けない状況が、日本のあちらこちらの新築住宅で日常的に起きているのではないでしょうか。「古民家再生住宅のすすめ」宇井洋先生著」