「俺は死ぬ係じゃないから」…特攻作戦を採用した男が、終戦直後に言い放った「衝撃的な言葉」
1/25(木) 7:03配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/b6b90f4678d32835efb10b3d8e1e1805abc1e1f4?page=1


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 2023年11月に公開された『ゴジラ-1.0』、12月に公開された『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』と、太平洋戦争中の日本陸海軍による「特攻」がクローズアップされた映画の封切りが相次いだ。また23年末には、NHK-BSスペシャルで『特攻4000人 生と死 その記憶』というすぐれたドキュメンタリー作品が放送された。

【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!

 NHKの朝ドラ『ブギウギ! 』でも、24年の年明け早々に、淡谷のり子をモデルにした茨田りつ子が、設定は甘いけれども特攻基地で慰問を行うシーンがあった。

 そんなわけで、このところ映像作品で「特攻」を目にすることが多いが、特攻隊の生存者がほとんどいなくなり、生の声を聞くことが難しくなった昨今、誤ったイメージが増幅されているきらいもある。ここでは、主に旧日本海軍の航空特攻について特に「誤解」が多いと見受けられることをいくつか、例証を挙げ、2回に分けて解説する。今回は前記事(特攻は「志願」だったか「強制」だったか…旧日本海軍の航空特攻についての「よくある誤解」)に続いての第2回である。

特攻隊員の「戦死率」
終戦直後、台湾・台中で撮影された特攻専門部隊・二〇五空「大義隊」の生存隊員たち。特攻隊員に任命された103名の搭乗員のうち35名が戦死した。2列め中央が角田和男中尉

 「十死零生」の特攻隊と、生きて何度でも戦うことが前提のほかの部隊とで、隊員の精神状態を比較することはむずかしい。だが、単純に部隊の戦死率を比較すると、意外な数字が出てくる。

 たとえば、昭和17年から18年にかけ、ラバウルを拠点にガダルカナル島攻防をはじめとするソロモン諸島やポートモレスビー空襲などで戦った第二〇四海軍航空隊の、18年6月までに配属された零戦搭乗員101名の消息を追ってみると、76名がそこから出ることなく戦死し、一度は内地に帰還できた残る25名も、うち13名がその後の戦いで戦死。生きて終戦を迎えたのは12名のみである。ラバウルでの戦死率はじつに75パーセント、終戦までの戦死率は88パーセントにのぼる。

 それに対して、昭和20年2月5日、沖縄戦に備え、特攻専門部隊として台湾で編成された第二〇五海軍航空隊は、103名の搭乗員全員が、志願ではなく「特攻大義隊員を命ず」との辞令で特攻隊員となった。大義隊は沖縄方面へ特攻出撃を繰り返すが、終戦までの特攻戦死者は35名で、戦死率は34パーセントである。

 さらに、二〇五空と同じ時期、昭和20年3月から終戦まで九州、沖縄上空で戦った戦闘第三〇三飛行隊は、特攻隊ではないが、現存する隊員名簿によると89名の搭乗員のうち38名が敵機との空戦で戦死、戦死率は43パーセントにのぼる。戦闘第三〇三飛行隊長は「特攻反対」を貫いた岡嶋清熊少佐、6月から蔵田脩大尉に交代している。

 ――数字だけで語れるものではないことは承知している。だが、沖縄方面へ特攻出撃を繰り返した特攻専門部隊より、通常の航空部隊の方がむしろ戦死率が高かったという、一面の事実がここにはある。じっさい、特攻よりはるか以前の昭和18年、長期間ラバウルで戦ううちに精神に異常をきたし、自殺を図って内地に送還された歴戦の搭乗員もいれば、戦闘を恐怖して敵機が来襲しても零戦ではなく防空壕へ一目散に走りだすなどして戦えなくなり、内地送還になった搭乗員もいる。特攻でなくとも、ギリギリの精神状態に追い詰められた者が少なくなかったのだ。自殺未遂の搭乗員と「戦闘恐怖」の搭乗員は、のちに戦列に復帰したが終戦まで生き抜き、戦後いずれもパイロットとして再起している。

 特攻でいえば、ただ1度の特攻出撃で戦死した隊員も多いが、たいていは数時間前の索敵機の情報をもとにしたり、自ら敵艦隊を探しながらの出撃となるので敵艦と遭遇できず、4回や5回、出撃して生還した隊員はいくらでもいる。そもそも、特攻作戦最初の、関大尉率いる「敷島隊」からして、4度めの出撃で敵艦隊に突入したものだ。

 いっぽう、特攻隊以外の航空隊について、零戦搭乗員の戦友会であった「零戦搭乗員会」が調査したところ、「搭乗員が第一線に出てから戦死するまでの平均出撃回数8回、平均生存期間は3ヵ月」だったという。初陣で戦死した搭乗員も少なくなかった。開戦劈頭(へきとう)の真珠湾攻撃に参加した搭乗員も、終戦までに80パーセント以上が戦没している。何度も出撃し、敵機を撃墜するなど戦果を挙げて生きて還ることのできる搭乗員は、じっさいには稀だったと言っていい。

 ここまで冷徹な数字が並んでは、どちらが人道的だとか酷いとか、議論しても始まらないように思える。前記事にも登場した歴戦の戦闘機乗りである角田和男が、特攻に直面し、「もうこうなったらやむを得ない」と納得してしまったのも、こんな素地があったからこそなのだ。

「特攻兵」という言葉は正しいか?
昭和19年10月25日、米護衛空母ホワイト・プレーンズに突入する零戦

 近年、特攻隊員を「特攻兵」や「兵士」と表記する記事や書籍が目立つが、これは正しくない。だが、いまは「『特攻兵』のなにがダメなの?」と思う人のほうが多いかもしれないので、誤っているゆえんを説明する。

 陸海軍の階級は、下から兵、下士官、准士官、士官(尉官、佐官、将官。海軍では兵科、機関科の士官のみ「将校」と呼ぶ)となり、「兵士」というのはもともと軍人の総称ではなく最下級の兵の階級を指す言葉だ。つまり下士官以上は「兵士」とは呼ばない。元軍人の多くが存命だった20年ほど前までなら、うっかりこのような表記をすれば当事者から必ず注意を受けたものだが、いまやチェックできる人がほとんどいなくなってしまった。

 ではどう呼ぶべきか。「特攻隊員」「将兵」である。「士官」であれば、たとえ任官したばかりの若い少尉でも「将」であって「兵」ではない。これらを「兵士」と一括りにし、「特攻兵」などと呼ぶのは、警察官に例えると、巡査部長も警部補も警部も警視もみな「巡査」と呼ぶのに等しい、かなり乱暴なことである。

 昨今の「兵士」という言葉の使われ方からは、「搾取する側(上層部)」と「搾取される側」をことさらに分けようとする、プロレタリアートの階級闘争史観のような匂いが感じられる。だが、「上層部」はつねに愚かで無能、「兵士」はその被害者、と雑に分けてしまうと、責任の所在がかえって曖昧になってしまうのではないか。

 「上層部」や「司令部」を批判し、糾弾するのは簡単だし、俗耳にも入りやすい。陸海軍は79年前に消滅しているから、いくら悪口を言っても身に危険が及ぶ心配もない。しかし、「上層部」や「司令部」の「誰が」「どのように」命令をくだしたかまで掘り下げなければ、いつまでも批判の矛先が曖昧模糊としたままで終わってしまうだろう。

特攻の責任はどこに?
昭和19年10月30日、神風特攻葉桜隊の特攻機の突入を受けた米空母「ベロー・ウッド」(手前)と「フランクリン」(右奥)。角田和男少尉が、直掩機としてこの一部始終を上空から瞬きもせず見届けたという

 戦後、防衛庁防衛研修所戦史室が著した『戦史叢書』(せんしそうしょ・全102巻、朝雲新聞社)という本がある。旧陸海軍の公式記録や当事者の証言をもとに書かれ、昭和41(1966)年から昭和55(1980)年にかけて刊行された本で、「公刊戦史」とも呼ばれる。これらの本の記述が、こんにち、旧日本陸海軍のいわば「正史」となっている。

 ところが、戦史叢書をつぶさに読んでも、肝心なところが書かれていなかったり、ぼかした表現になっているところが散見され、「特攻」に関しては特にそれが顕著である。

 元防衛省防衛研究所主任研究官・柴田武彦氏によると、陸軍関係の記述は失敗への反省も含めて比較的正直に記されているのに対し、海軍関係の記述は、元高官から編纂官への圧力が非常に強く、書くべきことが書けなかったのだという。

 であるから、こと海軍に関する「責任の所在」は、「戦史叢書」に頼らず、一次資料や証言を丹念に拾い集めて調べるしかない。

 海軍の特攻でいえば、その方針を最初に決めた軍令部第一部長(作戦担当)・中澤佑少将(のち中将)、第二部長(軍備担当)・黒島亀人大佐(のち少将)の存在は、もっと注目されてよい。昭和19年4月4日、黒島大佐は中澤少将に、人間魚雷(のちの「回天」)をふくむ各種特攻兵器の開発を提案、中澤はこれを了承し、軍令部はこの案を基に、特攻兵器を開発するよう海軍省に要請した。8月には人間爆弾(のちの「桜花」)の開発もはじまり、9月、海軍省は軍令部からの要望を受けて「海軍特攻部」を新設している。「回天」も「桜花」も、もとは現場の隊員の発案によるものだが、中澤、黒島の2人が同意しなければ、形になることはおそらくなかった。

 中澤は、当事者の間では「策士」「切れ者」と評されていたが、作戦部長として自らが主導したマリアナ沖海戦での大敗に見るように、作戦家としての能力には疑問符がつく。

 昭和19年10月、フィリピンで第一航空艦隊司令長官として特攻隊を最初に出撃させる役回りとなった大西瀧治郎中将が日本を発つ前、東京・霞が関の軍令部を訪ね、「必要とあらば航空機による体当たり攻撃をかける」ことを軍令部総長・及川古志郎大将に上申し、認められたという、よく知られた話がある。及川は「ただし、けっして命令ではやってくれるなよ」と条件をつけたと伝えられる。だが、このことを、その場にいたかのように書き残した中澤は、じっさいにはその日、台湾に出張していて不在だった。つまり及川軍令部総長の言葉は、終戦直後に自決した大西中将に責任をかぶせるため、「死人に口なし」とばかりに中澤がつくった話である可能性が高いということだ。これは私がインタビューした、当時の第一航空艦隊司令部の当事者たちの見方が一致するところだった。

 黒島は、昭和16年、連合艦隊司令長官・山本五十六大将の腹心として、真珠湾攻撃作戦を事実上立案したことで知られるが、昭和17年、ミッドウェー海戦敗戦の責任の一端は、旗艦「大和」で敵信を傍受しながらそれを機動部隊に伝えなかった黒島の判断にもある。この黒島が、特攻兵器の開発を中澤に提案した。そして、軍令部で航空特攻を積極的に推進、人間爆弾「桜花」の開発にも尽力したのは軍令部部員(参謀)だった源田実中佐(のち大佐)である。

 では、戦場での「上層部」はどうだったか。昭和19年10月、フィリピンで、大西中将の第一航空艦隊に続いて、援軍として投入された福留繁中将率いる第二航空艦隊からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を送り出したことがある。このときの特攻隊の生還者のなかには、

 「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て『頼んだぞ』と。それに対して福留中将は、握手もおざなりで、隊員と目を合わさないんですから」

 という声があった(このシーンは現在、NHKのWebサイト、「戦争証言アーカイブス」の「日本ニュース」第241号―昭和20年1月―で見ることができる)。当事者ならではの実感のこもった感想だろう。

長官としての責任
特攻隊員を見送る大西瀧治郎中将

 昭和20年5月、軍令部次長に転じた大西中将は、最後まで徹底抗戦を呼号し、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とはとても思えないような冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。

 大西の最期については、多くの若者に「死」を命じたのだからという醒めた見方もあるだろう。しかし、特攻を命じ、生きながらえた将官に、大西のような責任の取り方をした者は1人もいなかった。第五航空艦隊司令長官・宇垣纒中将(開戦時の連合艦隊参謀長)が、昭和20年8月15日、玉音放送後に特攻隊を率いて大分基地を飛び立ち、戦死しているが、これは終戦を承知で若者たちを道連れにした「私兵特攻」で、大西の身の処し方とは意味合いが異なる。

 特攻作戦採用の第一の責任者である中澤佑少将(終戦後、中将に進級)は、昭和20年2月、台湾の台湾海軍航空隊司令官、次いで高雄警備府参謀長となり、台湾から沖縄方面へ出撃する特攻作戦を指揮した。そして終戦直後、大西の自刃が報じられたさい、中澤も責任を感じて自決するのではと、それとなく様子をうかがう幕僚たちを前に、

 「俺は死ぬ係じゃないから」

 と言い放ったのを、特攻作戦の渦中に大西中将の副官をつとめた門司親徳がじかに聞いている。門司は、

 「大西中将は、『俺もあとから行くぞ』とか『お前たちだけを死なせはしない』といった、うわべだけの言葉を口にすることはけっしてなかった。しかし、特攻隊員の1人1人をじっと見つめて手を握る姿は、その人と一緒に自分も死ぬのだ、と決意しているかのようでした。長官は1回1回自分も死にながら、特攻隊を送り出してたんだろうと思います。

 自刃したのは、特攻を命じた指揮官として当たり前の身の処し方だったのかもしれない。でも、その当たり前のことが生き残ったほかの将官にはできなかったんですね」

 と回想する。中澤佑はB級戦犯に問われ、有罪判決を受け7年間服役したが、出所後は米海軍横須賀基地に勤め、昭和52(1977)年、83歳で亡くなった。

 黒島亀人は、宇垣纒中将(開戦時の連合艦隊参謀長、昭和20年8月15日、玉音放送に特攻隊を率いて大分基地を飛び立ち、戦死)の日記「戦藻録」の一部を勝手に処分したり、旧海軍の書類を無断で焼却するなど、なんらかの証拠隠滅ともみられる行動をとった。軍令部時代に借り上げていた邸宅にそのまま住みつき、宗教や哲学の研究に没頭していたという。昭和40(1965年)、肺がんのため72歳で死去。

 戦後、昭和21(1946)年から平成17(2005)年まで、特攻隊が最初に突入した10月25日に合わせ、東京・芝の寺にかつての軍令部総長や司令長官、司令部職員や元特攻隊員が集まり、「神風忌」(しんぷうき)と称する慰霊法要が営まれていた。参列者名簿には、及川古志郎大将、福留繁中将、寺岡謹平中将をはじめ、特攻に関わった「上層部」の指揮官たちの名前が、それぞれ生を終える直前まで残され、良心の呵責を垣間見ることができる。だが、中澤佑、黒島亀人という、「特攻」を採用した張本人である軍令部第一部長、第二部長の名はそこにはない。

 軍令部で特攻を強力に推進した源田実大佐は、昭和20年1月からは、自ら提唱した新鋭戦闘機・紫電改を主力とする第三四三海軍航空隊司令をつとめた。戦後は航空自衛隊に入り、航空幕僚長を経て参議院議員を昭和37(1962)年から3期18年にわたってつとめる。源田は、航空幕僚長在職中の昭和36(1961)年に『海軍航空隊始末記 発進編』、翌37年に『海軍航空隊始末記 戦闘編』という、自らの体験を基にした海軍航空隊の通史ともいえる2冊の本を文藝春秋新社から出版した。だが源田は、これらの本のなかで、どういうわけか自らが軍令部時代に主導した特攻や桜花についてはひと言も触れていない。それどころか、参議院議員選挙直後の昭和38(1963)年1月に封切られた、自著を原作として三四三空の活躍を描いた東宝映画「太平洋の翼」のなかで、「千田司令(三船敏郎)」と仮名ながら、自らを「特攻反対を貫いた軍令部参謀」として描かせ、経歴洗浄(ロンダリング)を成功させている。旧統一教会とも太いパイプを持ち、旧統一教会と国際勝共連合により設立された「世界日報社」が刊行する「世界日報」に回想記を329回にわたり連載(1982年)。だがここでも、特攻については他人事のように短く触れているだけである。

特攻の真意とは
昭和20年8月18日、大西中将自刃を報じた朝日新聞記事。遺書の文面が掲載されている

 特攻作戦を実行するとき、大西瀧治郎中将が、腹心の参謀長・小田原俊彦大佐に語った「特攻の真意」が、前出の元特攻隊員・角田和男を通じて残っている。大西中将は昭和9(1934)年、角田が予科練に入隊したときの教頭、小田原大佐は昭和16年、角田に計器飛行を教えた飛行長で、いずれも浅からぬ縁のある上官だった。

 小田原大佐はその後、内地への転勤途上で戦死したが、特攻出撃を控えた角田に、

 「教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようというのに、黙って見ていることはできない」

 と、大西中将から「他言無用」と言われていたというその真意を話してくれたのだという。それは、要約すれば、特攻は「敵に本土上陸を許せば、未来永劫日本は滅びる。特攻は、フィリピンを最後の戦場にし、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、講和を結ぶための最後の手段である」というものだった。しかもこのことは、米内光政海軍大臣と、海軍砲術学校教頭で昭和天皇の弟宮として大きな影響力を持つ海軍大佐・高松宮宣仁親王の内諾を得ていたという。つまりこれは、表に出さざる海軍、なかでも和平派の「総意」だったとみて差し支えない。

 角田は戦後、戦没者の慰霊行脚を続けながら、慰霊祭で再会した大西中将の元副官・門司親徳とともに大西中将の「特攻の真意」の検証を続け、ついに最初の特攻隊編成に立ち会った第一航空艦隊麾下の第二十六航空戦隊参謀・吉岡忠一元中佐と、大西中将夫人・淑惠から「間違いない」との裏付け証言を得た。

 この「真意」からすれば、「和平」を視野に入れていたはずの大西瀧治郎が、その後軍令部次長となり、終戦直前まで「徹底抗戦」を呼号したことは矛盾しているように思える。だが、最後の軍令部総長だった豊田副武大将は戦後、自らの戦犯容疑に関する軍事法廷の被告人質問で、

 「大西の(軍令部次長)起用は、(米内海相が)海軍部内の主戦派の不満を和らげるためだった」

 と証言している。つまり、米内光政海軍大臣が和平工作を進める上で、抗戦派を抑えるために大西を日本に呼び返した、ということだ。米内は大西に徹底的な抗戦論者を演じさせ、手を焼くふりを演じきった。大西もこれに十二分に応えた。門司はそれを、

 「米内海相の政治」

 だったのではないか、と私に語っている。だとすれば、大西の遺書に、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていたこととも辻褄が合う。

 特攻隊員たちの死を「無駄死に」であったとする論評もあるが、それは戦争の大きな流れを無視した近視眼的な見方によるものだ。

特攻隊員を正しく理解する
戦後、昭和21年から60年間にわたり営まれた「神風忌」慰霊法要の「参会者名簿」より。特攻採用時の軍令部総長だった及川古志郎大将をはじめ、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将など「上層部」の責任者が名を連ねる。だがここに、中澤佑、黒島亀人の名はない

 「フィリピンを最後の戦場に」という大西の(つまり海軍和平派の)思いは叶わなかったが、和平を促す「ポツダム宣言」が、本土決戦になった場合の膨大な犠牲を恐れた連合国側から出されたこと、日本政府が、それを多数決でなく「天皇の聖断」という形で受諾したことは、日本本土を敵の上陸から救い、「和平派」と「抗戦派」との間で起こりかねなかった内乱も防ぎ、多くの国民に復興と平和をもたらした。若者たちが、命を捨てて戦ったからこそ、瀬戸際で講和のチャンスが訪れ、日本は滅亡の淵から甦ることができたのだ。

 ――ただし、それは、あの無謀な戦争を防ぐことができたなら、払う必要のなかった大きすぎる犠牲であったことは確かである。

 戦没者に「無名戦士」などいない。1人1人に名前があり人生があり、家族があり、もしかしたら恋人もいたかもしれない。そんな若者たちがもし命永らえていたら、どれほどのことを成し遂げたかを思えばなおのこと、戦争の惨禍は想像を絶する。

 現在の視点で歴史上の事実を分析することは大切だが、それには常に、当時の価値観を俎上に乗せこれと比較するのでなければ、事実が真実から遊離してしまうし、批判も的外れなものになる。

 過ちを繰り返さないために、反省することは大切だ。しかしその反省は、あくまで「事実」に基づいたものではならない。人間は思い込んでしまえば嘘や作りごとにも感動してしまう生き物だから、これは大切なことである。感情的に特攻隊員を無駄死に呼ばわりしたり、逆に美化したりするところからは、教訓など生まれてこない。

 「われわれは英雄でも、かわいそうな犠牲者でもない。ただその時代を懸命に生きただけ。どうか特攻隊員を憐憫の目で見ないでほしい」

 ――ちょうど10年前に亡くなった、学徒出身のある元特攻隊員が遺した言葉である。

 『太平洋戦争の真実』

 『カミカゼの幽霊』