毎年この時期になるとお歳暮のカタログが届きます。

 

早く注文すると早割りがあるのでお得なのですが

 

選びながら、あと2ヶ月で今年も終わりかと

 

毎年、感じてしまいます。

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慢と宝のありか
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仏教を求めていく人が最後まで苦しむのが

 

自惚れ心の慢だといわれます。

 

ゆえに仏教を求める人がもっとも警戒しなければ

 

ならない心で、煩悩の1つだといわれます。

 

煩悩というと欲や怒りや愚痴などが代表的なもので

 

そういった心のほうが、警戒しなければならないのでは?と

 

思われる方もあるかもしれません。

 

たしかに欲や怒り、愚痴も恐ろしい心ではありますが、

 

仏教を求めていく人にとっては、慢心ほど恐ろしいものは

 

ないといわれます。これは仏教に限らず、どの道でも

 

いえることでしょうが、

 

「自分ほどわかっているものはいない」とか

 

「わたしほどよく知っているものはいないから」

 

「自分はさとったのだ」と慢心にとらわれますと、人の話が

 

聞けなくなってしまいます。

 

とくに、目下の者や自分が快よく思っていない相手の言うことなら

 

なおさらでしょう。

 

自分ほど理解しているものはないと自負する心が邪魔をして、

 

「このわたしに意見するとは何事だ!」という思いになってしまいます。

 

自分と違う意見や考えの人の言葉に、耳をふさいでしまうだけでなく

 

あいつの言ってることは、間違いだ、おかしいと決めつけてしまいます。

 

とくに年を重ね、経験を積み、実績をあげればあげるだけ自惚れや

 

自負心というのは強くなります。

 

そうなると自分の誤りや間違い、心得違いを正されることもなくなってしまいます。

 

昔から「至言は耳に逆らう」と言われます。

 

「まことの言葉は大変、耳が痛い」という意味です。

 

忠告や注意というのは、なかなか素直に聞けないものが多いのですが、

 

中でもブッダの教えは深い迷いの中にいる

 

私達には大変、耳の痛いものばかりです。

 

ですから、仏教を聞くとちょうど叱られているような気分になります。

 

今日でも「説教」という言葉があります。本来は仏教の教えを説くことを

 

「説教」とか「説法」というのですが、ブッダの教えを聞かせてもらいますと

 

私達には、反省せずにおれない内容ばかりですので、

 

まるで叱られているような気持ちになります。今日では「説教」というと

 

教え叱り諭すというように使われるようになっています。

 

私達は自惚れいっぱいですから、叱られてうれしい人はいないでしょう。

 

そんな私達ですから、放っておくと自分の思いにとらわれて仏の教えが

 

だんだん聞けなくなり、仏道を求めることができなくなってしまいます。

 

ゆえに仏教では、自惚れ心が道を求める上で一番恐ろしい心だと

 

警戒されてきたのです。

 

自分を叱ってくれる人は

 

「宝のありかを教えてくれる人」だと思って大切にしなさいと

 

仏教ではいわれます。お互いそういう人を大事にしたいものです。