先日、数年ぶりに知り合いに会いました

 

転勤してしまったので、頻繁には会えなく

 

なりましたが、かれこれつきあいは10年くらいに

 

なります。出会った頃はこんなに長いつきあいに

 

なるとは思っていませんでしたが、これが「縁」なのでしょうね。

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多生と縁
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縁という言葉は日常生活の中でも、よく耳にされるかと思います。

「これも何かのご縁ですね」といわれたり、他にも

縁結び、縁談、血縁、文豪〇〇さん縁(ゆかり)の地、くされ縁など

いろいろ使われています。

この「縁」という言葉はもともと仏教思想から来たもので

それが今ではすっかり日本語として定着しています。

「縁」には、めぐりあわせ、きっかけ、つながり、関係というような意味があります。


今までを振り返ってみると

今の自分の人生は、数々の縁(出会いやつながり)に

よって作られてきたと言えるでしょう。

親や兄弟、友達、先生、恋人、上司、同僚などなど

それらの人たちとの出会いによって様々なことを

学んだり、覚えたり、経験して、今の自分があると言えるでしょう。

もしあの日、あの時、あの場所で、あの人と出会っていなければ

今とは違った人生になっていたはずです

そんな数々の出会いが今の私の人生に影響を与えてきました。

落ち込んだとき、相談にのってもらえたとか

迷ったときに励まして、背中を押してもらえたとか

辛い苦しいときに、かげながら応援し支えてくれたとか

一つ一つは小さなことかもしれませんが、それがなかったら

もっと違った人生になっていたのかもしれません。

そう思うと縁というのは不思議なもののように思えますが

仏教思想では

「袖触れ合うも多生(他生)の縁」といわれます

袖と袖がふれあったということは、過去世からの縁があってのこと

という意味です。

今は着物を着ることもないので、あまり袖はありませんが

肩と肩が触れ合ったと考えてみてください。

電車やバスの中、街中で、ときどき見知らぬ人と

肩や手が触れ合うことがあります。

そんなことはしばしばあるでしょうから、あまり

気にもとめないかと思いますが

考えてみると地球上に何十億という人がいます。

ほとんどの人とは一生顔をあわすこともなく

すれ違うこともなく過ぎてゆきます。

そんな中、一瞬ではありますが肩が触れ合うというのは

よほどのことです。同じ日本に住んでいても、すれ違う

こともない人がほとんどでしょう。

ところが中には、普段は北海道に住んでおり

その日、東京に遊びに来ていた人がいたとします。

また同じく普段は名古屋に住んでいるのに

その日は仕事で東京に来ていた私と、

なぜか北海道から遊びに来ていたその人と、名古屋から来た私が

ぶつかるということが、あったかもしれません。

普段ならぶつかるはずもない人なのに、、

そしてそんな人とは2度とすれ違うこともないかもしれません。

それなのに、東京で見知らぬその人とぶつかったというのは

昔からの縁があったからだと仏教では言われます。

ではどれくらい昔からの縁なのかというと多生の昔からといわれます。

一生に対して、多生という言葉があります。

一生なら、生まれてから死ぬまでの、長くて100年くらいの間です。

ですが仏教では、わたし達の生命は一生くらいではなく

この人間に生まれる前の過去、様々な生き物や

いろいろな世界に生まれては死に生まれては死にを繰り返してきたといわれます。

それは二回や三回くらいではなく、ものすごく多く生まれては

死にを繰り返してきたから「多生」だと仏教では教えられます。

そんな多生からのつながり、関係があるのだよと言われたのが

「袖触れあうも多生の縁」という言葉なのです。

そんな

見ず知らずの人でさえそうですから

夫婦、親子、兄弟などの近い間柄や親友などの深いつながりのある人とは

遠い過去からよほど縁があってのことなのです。

ですからはるか過去には、今の親友とは、別の生き物で兄弟だったかも

しれませんし、現在の恋人とは、過去、別の世界で親子だったのかもしれません。

自分と深いつながりのある人は、実は現在だけのつながりではなく

果てしない過去から縁のある人なのだよ、懐かしい人達と再会しているのだよ

と仏教では言われています。

自分を育んでくれた今までの縁はとても大切なものですから、大事にしたいものです。