どうせ見えていないのです。

大胆になっても問題ナッシング。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は息抜き。

次の動画を見てみませんか(無音でもOK)。

簡単なクイズです。

白Tシャツがバスケットボールを何回パスしたかを数えてください、というクイズです。

英語ですが、分からなくても問題ありません。

英語なので、私には何を言っているのか、さっぱりですが、問題ありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しつこいかもしれないけど、もう一回分あります。

敗者復活戦です。

内容は、さきほどと同じです。

白Tがパスする回数を数えるだけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうだったかな?

「見えないゴリラ」とかいうテストらしいです。

白Tのパスにばかり注目してしまうと、他のことが見えなくなるのです。

たとえ、視界には入っていても。

 

 

 

 

 

 

似たような場面は日常生活にもたくさんあると思います。

学校のクラスや職場でも、気になる女の子が何をやっているかは少しも見逃しません。

しかし、隣の野郎のこととか、向かい側の上司の仕事ぶりとかは全く見ていないのです。

そこに意識は行っていないのです。

 

 

 

 

 

 

視界と視線は似ているようで、全くの別物なのです。

ですから、普段のなにげない気づきとかって、とってもおもしろいです。

白Tのパスに注目しようとしていないのに、気づいてしまうのですから。

ということは、自分は無意識に、その気づきを欲していたということなのです。

気づきは大事にしたいのです。

全く興味ないと、その場では思っていたとしても、実は深層意識では興味深々であったりするのです。

 

 

 

 

 

 

興味のない人の顔なんて、へのへのもへじです。

でも、好きな女の子の顔は、ありありと思い浮かべることができます(ほぼストーカーですね)。

好きな女の子の顔って、恥ずかしくて正視できないのに、なんで脳に焼き付いているのでしょう。

不思議です。

 

 

 

 

 

 

何を言いたいかというと、見ていると自分では思っていても、ぜんぜん見れていないことがあるのです。

視界には入っていても、視線が向いていなかったりするのです。

視線が向いていないということは、実は見ていないということです。

 

 

 

 

 

 

よく、他人から、どう見られているかを気にする人が多いけれど、人間は、あんまり他人のことを見ていない的なことを言う人がいます。

その通りだと思います。

むしろ、人間って、もっと見ていなかったりします。

見ていないなら、見ていない、で済むのですが、「見ているのに見ていない」という不思議なことをやっています。

人間は他人を視界に入れているにもかかわらず、見えていないのです。

 

 

 

 

 

 

わたしたちは、もっと大胆になるべきかもしれません。

見られていないなら、大胆になっても不都合はないです。

しかも、見られていても、見えていなかったりするのです。

ちょっと大胆になってみよう。