ルックスとは何でしょうか。

私は「顔つき」と「体つき」を合わせてルックスだと考えています。

 

 

 

 

顔だけじゃないところがポイントです。

体もあります。

 

 

 

 

「顔」ではなくて「顔つき」である点も大事にしたい。

「体」ではなくて「体つき」なのです。

 

 

 

 

顔つきと体つきを合わせて、その人のルックスが表現されているのです。

体つきは筋トレで作れますから、今回は顔つきについて考えてみます。

 

 

 

 

顔だけをルックスであると判断してしまうと、切ないです。

顔の良しあしは、生まれ持ったものに左右されるからです。

生まれ持ったものに振り回されるのは、気に食わないじゃないですか。

 

 

 

 

顔つきは、そうではありません。

顔つきは、むしろ生まれてから、これまでどのように生きてきたのかの集大成が表現されているように感じるのです。

 

 

 

 

例えば、好きな俳優や女優さんを思い浮かべてみると分かりやすいかもしれません。

その方の20歳の頃の顔と、40歳の頃の顔はどちらがかっこいいでしょうか、どちらが美しいでしょうか。

 

 

 

 

おそらく顔だけで判断すると、若い20歳の頃の顔に軍配が上がるのではないでしょうか。

若い方が肌のツヤも良く、しわも無く、しみも無いからです。

 

 

 

 

でも、好きな顔というのは、肌のツヤとか、しわやしみとかの話ではないと思うのです。

凛々しいであるとか、気品があるとか、繊細な感じがするとか、そういった判断を基に、好きな顔を選んでいるのではないでしょうか。

それが顔つきなのだと思います。

 

 

 

 

年齢を重ねるたびに、楽しいことだけでなく、辛いことも苦しいことも経験するでしょう。

そうした経験が顔に刻まれていくのです。

その集大成が顔つきとなって、その人の人となりが外に表れていくのです。

 

 

 

 

かっこいい人は、どこか淋しそうな顔をしています。

美しい人は、どこか切ない顔をしています。

 

 

 

 

影の部分があるからこそ、人の顔つきは輝きを放つのでしょう。

仮に、楽しいことだけを経験してきた人がいたとして、果たしてその人の顔つきは、かっこいいと言えるでしょうか、美しいと言えるでしょうか。

 

 

 

 

私は違うと思う。

凄みが無いからです。

 

 

 

 

もちろん、苦労、苦難だらけだったら、かっこよくなれるのか、美しくなれるのかと言えば、そうではないと思います。

苦労や苦難の連続だらけになると、どうしても世間に対する恨みつらみ、憎しみが顔へ大量に刻まれていってしまうからです。

 

 

 

 

自分は、これまで生きてきて何も幸運に恵まれることが無かった。

そう文句を言って、嫉妬、羨望、憎悪を顔に刻み込んでいる人の顔は、醜い。

残酷かもしれませんが、醜い。

 

 

 

 

しかし、数百万円の借金で自殺する人がいる一方で、数億円、数十億円の借金を抱えていても、なお生き生きとしている人がいます。

 

 

 

 

だから、実際には苦労や苦難の量は関係ないのかもしれません。

輝きのある顔つきの人には、光と影があるのです。

光だけでも、いけない。

影だけでも、いけない。

その両方がブレンドされた顔つきに魅力を感じます。

 

 

 

 

顔は生まれ持ったものですから、整形手術をしない限り、変えることはできません。

整形手術をしても限界があると考えるのなら、手術によっても、生まれ持った顔を変えることはできないことになります。

 

 

 

 

でも、顔つきは変えられるのではないか。

私は、そう信じています。

 

 

 

 

整形手術を否定しているわけではありません。

顔にコンプレックスがあるのなら、どんどん整形手術をすればいいと思います。

お金でコンプレックスを解決できるのなら、安いものです。

お金で解決できないコンプレックスは、たくさんあります。

整形手術は、人類のコンプレックスの一つを解決する糸口を与えてくれていると考えると、とても素敵ではありませんか。

 

 

 

 

話を戻します。

顔は変えられないかもしれませんが、顔つきは変えられるのです。

これからの生き方によって。

 

 

 

 

もちろん、すぐには変わりません。

時間がかかることでしょう。

ほんの少しずつ時間をかけて、誰にも気づかれないような形で変わっていくのです。

自分でも気付かないことでしょう。

でも、変えられるのです。

この事実は、私にとても勇気を与えてくれます。

 

 

 

 

まず、顔つきを変えると決断すること。

次に、顔つきを変えるのは、これからの生き方であると受け入れること。

 

 

 

 

この二つが大切です。

特に二つ目が難しいです。

これからの生き方次第で、顔つきが変化することを認めてしまうと、これはもう自分に誠実な生き方をする以外にないじゃないですか。

とても怖いことです。

 

 

 

 

自分に誠実な生き方とは何でしょうか。

自分に誠実な生き方は、人の数だけ解があります。

 

 

 

 

例えば、正真正銘の筋金入りの詐欺師は、人をだまし続けることが自分に誠実な生き方かもしれません。

自分に備わっている「人を欺く」という才能を最大限に発揮してあげることが、自分に誠実な生き方につながるからです。

現代日本においては抹殺されてしまいますが、自分に備わっている才能を腐らせてしまうのは、他でもない自分に申し訳ないじゃないですか。

 

 

 

 

才能の話は別の機会に譲るとして、話を戻します。

自分に誠実な生き方とは何でしょうか。

 

 

 

 

それは決して、逃げない生き方だけではありません。

怖いことから逃げ回ってもいいけれど、逃げ回っていることを認めることが、自分に誠実な生き方なのです。

逃げ回っていることを認めない限り、自分の弱さとは向き合えないからです。

逆に、弱さと向き合っているのなら、その時は逃げていたとしても、誠実な生き方をしているのです。

 

 

 

 

自分に誠実であるとは、己の強さだけでなく、弱さとも向き合い、受け入れることです。

得意なこと、できることだけでなく、苦手なこと、できないことも自分の一部です。

それを捨ててしまったら、自己否定することになります。

そんなの、自分に失礼じゃないですか。

 

 

 

 

自分の弱さと向き合っている人の顔つきは、凛々しい。

己の弱さを受容できるということが、実は強いということなのだと信じています。

少なくとも、私はそうあってほしい。

 

 

 

 

「自分の弱さと向き合う」

よく言われることですが、結局は心の問題に行き着くのです。

 

 

 

 

心を逞しくすれば、顔つきも逞しくなっていく。

心を凛々しくすれば、顔つきも凛々しくなっていく。

心を美しくすれば、顔つきも美しくなっていくのです。

 

 

 

 

反対に、

心を卑しくすれば、顔つきも卑しくなっていく。

心を汚くすれば、顔つきも汚くなっていく。

心を醜くすれば、顔つきも醜くなっていくのです。

 

 

 

 

心を鍛えよう。

何も難しいことをする必要はありません。

己の弱さと向き合えばいいだけなのだから。

 

 

 

 

自分の弱さと向き合おう。

何も難しいことをする必要はありません。

逃げたいこと、怖いことを書き出せばよいのだから。

 

 

 

 

紙に鉛筆で書いてみよう。

あなたの手は、どんな文字を書くのかな。