《はじめに》和会は幼なじみを含む大和中学校時代の同級生と交流がもてる(遊んでもらえる)コトを常に考えていまーす。
ヤッホー!
なご吉でーす!
地元神奈川県をこよなく愛してやまない僕、なご吉が神奈川県内の不思議な名所や、謎?を僕目線でお伝えしちゃいまーす!
どうやって神奈川県の県名は決められたのー?
なぜ横浜県でなく神奈川県になったのー?
明治時代に入って、幕府の神奈川奉行所を引き継いだ神奈川裁判所が、東海道最大規模の都市の神奈川宿の神奈川の名を県名にすることにしたんだってー。
神奈川とは幕府の奉行所名で、神奈川奉行所の直轄地が神奈川府になりましたー。
奉行が治めていたところは府、代官が治めていたところは県と名付けたんだってー。
ちなみに、奉行所名が現在の都道府県名になったところは他にも、大阪、京都、奈良、長崎などがありまーす。
※奉行所とは、警察と役場をまとめた機関で、行政事務や、裁判などでーす。
神奈川奉行所があった場所は、横浜村:現在の横浜市西区紅葉ケ丘9-1 神奈川県立青少年センター前に史跡がありまーす。
※運上所とは、外交や税関の業務を行う機関で、港での輸出入品の監督や、関税の徴収などでーす。
運上所所があった場所は、横浜村:現在の横浜市中区日本大通1神奈川県庁内に史跡がありまーす。
それでは、神奈川県誕生の経緯を説明しちゃいまーす。
1858(安政5)年、日米修好通商条約が締結され、約200年続いた江戸幕府の鎖国政策が終わりましたー。
神奈川湊(港)を開港することが決まったけど、当時、東海道の宿場町としては最大規模の都市であった神奈川湊(港)を開港すると、庶民と外国人とが接することで治安が悪化するのでは?と、幕府は急遽、三方を海で囲まれている貧しい漁村であった「横浜村」を開港場としたんだってー。
これに対し、「神奈川を開港すると言ったのに約束が違う」と諸外国(黒船のペリー・宣教師のウィリアムズたち)は猛反発したけど、「横浜村は神奈川湊の一部だ」と主張したんだってー。
1859(安政6)年、横浜村が開港の場に選ばれ、外国人居留地が出来たのを機に、横浜町として区画整理されたんだってー。
1868(明治元)年、神奈川奉行所と神奈川運上所は、神奈川裁判所と改称したんだってー。
同年6月17日、当時の「裁判所」は行政機関と同じ、機能は県庁と同じなので神奈川府へと改称したんだってー。
同年9月21日、神奈川県へと改称したんだってー。
1889(明治2)年、横浜市に昇格。当時の人口はおよそ12万人だったんだってー。
1901(明治34)年、神奈川町の一部地域と、本牧村、根岸村も横浜市に編入され、その人口は30万人近くに膨れ上がったんだってー。
1927(昭和2)年、鶴見や保土ヶ谷などの地域も編入し、併せて区制も施行され、神奈川区が誕生したんだってー。
横浜市が勢力を拡大したのは、開港を境に一大都市として急速な発展を遂げ、港町・横浜の飛躍的な発展をし、西洋文化の最先端が次々と輸入され、首都・東京を凌ぐ勢いで「ハイカラな町・横浜」となり、その名が全国に広がったんだってー。
当時の横浜は、神奈川奉行所の管理下にあったんだってー。
横浜県にならなかったのは、奉行所は神奈川より横浜を一段下に置いていて、行政区分と管轄の上下が優先された「お役所事情」だったのかは判りませーん。
また、明治新政府が、地方制度の確立を目指し全国に府県を設置した際に、諸外国と幕府が締結した条約上の開港場であった「神奈川」という名を、そのまま引き継ぐよう指示したのか?しないのか?は判りませ―ん。
歴史的な遺産?なのか、時代の落とし子?なのか、現在、神奈川県の中に横浜市があり、その横浜市の中に神奈川区があるという、神奈川県横浜市神奈川区、と、ややこしい住所が生まれてしまったんでーす。
ちなみに・・・横浜は江戸時代(1800年代前半)は80数戸の家が立ち並ぶだけの寒村で、幸い海に囲まれて漁業や塩づくりが盛んに行われ、海の幸の中でもナマコが重要な財源であったと史料に書かれていまーす。
当時の幕府は、対中貿易の輸出品として中華料理には欠かせないナマコを取り扱っていて、村民はナマコを採り、干しナマコとして江戸に送り、貿易の窓口である長崎から中国に輸出するぐらいナマコ採りは村の一大産業となってたんだってー。
以上、なご吉でした!
バイバーイ!
ヤッホー!
なご吉でーす!
地元神奈川県をこよなく愛してやまない僕、なご吉が神奈川県内の不思議な名所や、謎?を僕目線でお伝えしちゃいまーす!
どうやって神奈川県の県名は決められたのー?
なぜ横浜県でなく神奈川県になったのー?
神奈川とは幕府の奉行所名で、神奈川奉行所の直轄地が神奈川府になりましたー。
奉行が治めていたところは府、代官が治めていたところは県と名付けたんだってー。
ちなみに、奉行所名が現在の都道府県名になったところは他にも、大阪、京都、奈良、長崎などがありまーす。
※奉行所とは、警察と役場をまとめた機関で、行政事務や、裁判などでーす。
神奈川奉行所があった場所は、横浜村:現在の横浜市西区紅葉ケ丘9-1 神奈川県立青少年センター前に史跡がありまーす。
※運上所とは、外交や税関の業務を行う機関で、港での輸出入品の監督や、関税の徴収などでーす。
運上所所があった場所は、横浜村:現在の横浜市中区日本大通1神奈川県庁内に史跡がありまーす。
それでは、神奈川県誕生の経緯を説明しちゃいまーす。
1858(安政5)年、日米修好通商条約が締結され、約200年続いた江戸幕府の鎖国政策が終わりましたー。
神奈川湊(港)を開港することが決まったけど、当時、東海道の宿場町としては最大規模の都市であった神奈川湊(港)を開港すると、庶民と外国人とが接することで治安が悪化するのでは?と、幕府は急遽、三方を海で囲まれている貧しい漁村であった「横浜村」を開港場としたんだってー。
これに対し、「神奈川を開港すると言ったのに約束が違う」と諸外国(黒船のペリー・宣教師のウィリアムズたち)は猛反発したけど、「横浜村は神奈川湊の一部だ」と主張したんだってー。
1859(安政6)年、横浜村が開港の場に選ばれ、外国人居留地が出来たのを機に、横浜町として区画整理されたんだってー。
1868(明治元)年、神奈川奉行所と神奈川運上所は、神奈川裁判所と改称したんだってー。
同年6月17日、当時の「裁判所」は行政機関と同じ、機能は県庁と同じなので神奈川府へと改称したんだってー。
同年9月21日、神奈川県へと改称したんだってー。
1889(明治2)年、横浜市に昇格。当時の人口はおよそ12万人だったんだってー。
1901(明治34)年、神奈川町の一部地域と、本牧村、根岸村も横浜市に編入され、その人口は30万人近くに膨れ上がったんだってー。
1927(昭和2)年、鶴見や保土ヶ谷などの地域も編入し、併せて区制も施行され、神奈川区が誕生したんだってー。
横浜市が勢力を拡大したのは、開港を境に一大都市として急速な発展を遂げ、港町・横浜の飛躍的な発展をし、西洋文化の最先端が次々と輸入され、首都・東京を凌ぐ勢いで「ハイカラな町・横浜」となり、その名が全国に広がったんだってー。
当時の横浜は、神奈川奉行所の管理下にあったんだってー。
横浜県にならなかったのは、奉行所は神奈川より横浜を一段下に置いていて、行政区分と管轄の上下が優先された「お役所事情」だったのかは判りませーん。
また、明治新政府が、地方制度の確立を目指し全国に府県を設置した際に、諸外国と幕府が締結した条約上の開港場であった「神奈川」という名を、そのまま引き継ぐよう指示したのか?しないのか?は判りませ―ん。
歴史的な遺産?なのか、時代の落とし子?なのか、現在、神奈川県の中に横浜市があり、その横浜市の中に神奈川区があるという、神奈川県横浜市神奈川区、と、ややこしい住所が生まれてしまったんでーす。
ちなみに・・・横浜は江戸時代(1800年代前半)は80数戸の家が立ち並ぶだけの寒村で、幸い海に囲まれて漁業や塩づくりが盛んに行われ、海の幸の中でもナマコが重要な財源であったと史料に書かれていまーす。
当時の幕府は、対中貿易の輸出品として中華料理には欠かせないナマコを取り扱っていて、村民はナマコを採り、干しナマコとして江戸に送り、貿易の窓口である長崎から中国に輸出するぐらいナマコ採りは村の一大産業となってたんだってー。
以上、なご吉でした!
バイバーイ!