“Gatas こnyanこ TIMES ” おもてなし 美食どう かゆかゆまんま -2ページ目

“Gatas こnyanこ TIMES ” おもてなし 美食どう かゆかゆまんま

時空の中で、こころのお洒落な健康さがしの黄昏往く旅

とんがった服が好き--脚本家・筒井ともみさん愛猫ヴーヴとともに=東京都港区の自宅で 愛猫ヴーヴとともに=東京都港区の自宅で
最新の流行を取り入れたファッションも面白いけれど、年を重ねたら、目指したいのが「自分らしい」スタイル。ただ、「個性的に」と願っていても、ちまたにあふれる服の中から、似合うもの、着たいものを見極めるのは至難の業。「ワードローブ」では、生き方がにじみ出るような装いをしている女性を毎回ご紹介します。人まねでない、自分だけのおしゃれを楽しむヒントがいっぱいです。 背中押してくれる
 人がどう見るかなんて、ありもしない物差しで、自らを縛るなんてもったいない。
 「まともな服はどうも恥ずかしくて。何歳になっても、やんちゃな服が大好き」。脚本家として多くのヒット作を生み出してきた筒井ともみさん(58)のおしゃれの哲学は、とてもはっきりとしている。ユニークな、いわば"とんがった"服やアクセサリーしか身に着けない。「年相応に落ち着く? そんなことありえませんよ」と少女のように目を輝かせながら、おおらかに笑う。若手デザイナーの服は「才能を育てるために買う」筒井さん。タオ・コム・デ・ギャルソンの栗原たおさんによる、刺しゅうのハンカチをつないだコート(写真<上>)は「鳥肌が立つくらい魅せられた」という一枚。東京コレクションの注目ブランド「ドレスキャンプ」のダチョウの羽根を使ったスカート(同<中>)も最近のお気に入り。豚の顔の指輪(同<下>)は友人からのプレゼント。「キッチュな感じが大好き」若手デザイナーの服は「才能を育てるために買う」筒井さん。タオ・コム・デ・ギャルソンの栗原たおさんによる、刺しゅうのハンカチをつないだコート(写真<上>)は「鳥肌が立つくらい魅せられた」という一枚。東京コレクションの注目ブランド「ドレスキャンプ」のダチョウの羽根を使ったスカート(同<中>)も最近のお気に入り。豚の顔の指輪(同<下>)は友人からのプレゼント。「キッチュな感じが大好き」
 そんな筒井さんのおしゃれの原風景には、母親が手作りしてくれた服がある。「ずっと家にいて物静かな人なのに、なぜかセンスは自由かつ大胆だった」。左右の袖の色が違うカーディガンや、赤と鶯(うぐいす)色を組み合わせたセーター......。今も鮮やかに記憶に残るのは、人とはどこか違う服だ。
 「シングルマザーで私を育ててくれた母。それに同居していたのが俳優の伯母夫婦。どう考えても普通じゃない家に育ったから、まともな服が苦手なのも当たり前」と筒井さんは、自嘲(じちょう)気味に、でも楽しそうに子ども時代を語る。
 そして70年代半ば、脚本家として歩き始めたころ出会った、三宅一生さんやコム・デ・ギャルソンの川久保玲さん、山本耀司さんの服もまた、筒井さんのスタイルに多大な影響を与えたという。左右非対称だったり、穴が開いていたりと、西洋にはない新しい発想で世界に名をはせた3人。「その反骨精神あふれる服に袖を通すたび、背中を押されるような気がして。彼らの服は私にとって戦闘服。出会わなければ、今の私はないかもしれません」
 服の持つ力に目覚めた筒井さんは、以来、「細胞が生き生きするような」刺激的な服を常に求めてきた。ブランドの名前で服を買うことは一切ない。「人がどう見るか、そんなありもしない物差しで自らを縛るなんてもったいない」
 自分が良いと思うものを堂々と着る。それは、筒井さんが、人生で「着る」と「食べる」を最も大切なことと位置付けていることの証しだ。「どちらも自分を形作り、自分がどんな世界を持ちたいかを表します。着る・食べるをおろそかにして、豊かな人生はありえません」
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 ウールのセーターに染みを発見。自宅で染み抜きできるの。
 タオルで挟んでつまむ
 まずそのセーターが自宅で洗えるかをチェック。花王生活者研究センターの弦巻和さんによると、洗面器にバツ印の「水洗い不可」マークがなければ家で洗濯しても大丈夫。ネットに入れ、中性洗剤を使い洗濯機の手洗いコースで洗います。
 染み抜きは洗濯の前に。同じ中性洗剤の原液を手にとり、染みの部分になじませてからタオルで挟み、染みをタオルに移し取るようにつまみます。中性洗剤で落ちなければ、液体の酸素系漂白剤を。塩素系はウールには向かないので注意が必要です。
 自分で手に負えない場合はプロに任せましょう。クリーニング店「カラキヤ」(東京都港区)の新井健吾さんによると「油性ペンの汚れやサビ、墨汁など特殊なものは自宅では難しい」とか。いずれにしても早めの対処が肝心。着用後に衣服の汚れをチェックをする習慣を身に着けましょう。
 人物略歴   つつい・ともみ
 1948年東京生まれ。成城大学を卒業後、バイオリン奏者を経て脚本家となり「家族ゲーム」など数々の人気テレビドラマを手がける。故松田優作さん主演の「それから」で映画に進出。「阿修羅のごとく」では日本アカデミー賞最優秀脚本賞受賞。近著に「着る女」(マガジンハウス)、「うつくしい私のからだ」(集英社・26日発売)。今春から東京芸術大学大学院でゼミを担当する。

 ザクッと自然体-コスチューム・アーティスト ひびのこづえさん「綿や麻、ウールといった自然で優しい素材が大好き」とひびのさん 「綿や麻、ウールといった自然で優しい素材が大好き」とひびのさん


 ◇“黒衣”に徹し元気に
 ◇良いものを長く愛着を持って。そんな服作りがいつかできれば。
 「白シャツかTシャツにパンツ、温度調節のためのストールと何でも入るかごバッグ。自転車でどこにでも行くので、いつもこんなザクッとしたスタイルばかりです」と話すひびのさん。人懐っこいチャーミングな笑顔に、自然体の服がぴったりだ。
 ナチュラルな服を選ぶようになったのは、30代になって衣装デザインを始めてからだという。イラストなどを手がけていた20代のころは、「変わった服が大好きで、それはもうとんがった格好をしてました」。時代はデザイナーズブランド全盛期。当時は珍しかったスパッツをはき、「地方出張にいって街の人に笑われた」こともある。
 だが、衣装を作るようになって考えを変える。形も色も奇抜で、見る人を楽しませるのがひびのさんのデザインの特徴。その“黒衣”に徹しようと思った。「自分よりも、作った服に目立ってもらわないと困る。衣装デザイナーだから派手な服を着ているはずと、期待されるのも嫌だったから」
 「白」を選ぶのは、どこでも、誰にでもなじむ色だから。そして何より、自分が「元気になるから」だ。「白は光の色。私、お日様が大好きなので、白は太陽の光に近づける気がするんです」
 朝起きて服を選ぶときも、基準は元気に見えるかどうか。「ザクッとした服」でも、ルーズに見えないよう上下のボリュームのバランスに気を配る。「体の線をカバーしすぎてもダメ。だから、私、若い人が行くお店で服を買うようにしているんです。細くてタイトなシルエットが多いけれど、着ると体を締めなければと思えるでしょう」愛用のかごバッグとストール。「価格も手ごろで惜しげなくどこでも置けるから、かごバッグは手放さない」 愛用のかごバッグとストール。「価格も手ごろで惜しげなくどこでも置けるから、かごバッグは手放さない」

 古着も好きで、よく手に取る。もともと、服を買うときは何度も見て、考えてからという慎重派。気に入った服はぼろぼろになるまで着て、さらにその生地をバッグに作りかえたりもする。古着は、「良いものを長く着たい」というひびのさんの思いにぴたりと重なるのだそう。
 最近は、ひのきを使った履物や、薄くて柔らかく吸水性に優れたタオル用品など、暮らしの中の道具のデザインも手がけるようになった。これも「良いものを長く愛着を持って」という思いから。暮らしの中のちょっとした疑問が仕事とつながってきたのが、楽しいという。
 「年を重ねて、自分を押し付けずに物作りができるようになってきた」と、ひびのさん。長く着られる服作りも「自然な流れで、いつかできれば」と考えている。
 ■人物略歴
 1958年静岡生まれ。東京芸術大学美術学部卒業。広告、演劇、ダンス、バレエ、映画、テレビなど幅広い分野の衣装デザインで活躍。近年では、愛・地球博開会式や歌舞伎俳優・中村勘三郎さんの襲名披露公演の衣装を担当。現在、NHK教育テレビ「にほんごであそぼ」「からだであそぼ」のセットや衣装を手がけている
体をキャンバスに-童話作家・角野栄子さん鎌倉市内にある自宅の庭で。創作活動には、ゆったりしたワンピースを選ぶ 鎌倉市内にある自宅の庭で。創作活動には、ゆったりしたワンピースを選ぶ
 ◇形はシンプル、色で遊ぶ
 ◇20代。ブラジル暮らしで気づいた。赤、白、黒を基本に楽しく自由におしゃれを楽しむ。
 「この年になると、いくら流行してても、さすがにスパッツははけないじゃない? だから小物で遊ぶようにしているんです」とおどける角野さん。70代には思えない、つややかな肌と若々しい笑顔は、本人が書く童話ではないけれど「ひょっとして何か魔法でも?」と聞きたくなる。
 角野“魔女”の着こなしの秘密は、「色」にある。眼鏡は赤や紫のセルフレーム、あめ玉のようにカラフルで大きなプラスチックやガラスの指輪も角野さんの定番だ。「鮮やかな色はそれだけで目を引くから、しわや肌のくすみも目立たない。似合うと言われたこともあって、40代のころから、特に赤はよく身につけるようになりました」
 服も、グレーやベージュなどあいまいな色はほとんど選ばない。赤、白、黒の3色が基本。これは20代のころに暮らしたブラジルでの経験が生きている。「黒人の女性が白を着ているのをよく見かけたんです。肌とのコントラストが美しくて、服を着るときは、自分の体がキャンバスなんだと気づきました」
セルフレームのユニークなデザインの眼鏡は洋服に合わせて替える セルフレームのユニークなデザインの眼鏡は洋服に合わせて替える
 代表作「魔女の宅急便」で主人公のキキに着せたのは、角野さんが「ほかのどの色よりもおしゃれ」と感じる黒。きっかけは、英国のホテルで見かけた光景だ。パーティーに集った淑女たちが、一様に黒のドレスをまとっていた。一口に黒といっても生地の質感で印象は異なる。どんな髪や肌の色も引き立て、着る人をキラキラと輝かせる--そんな「黒の魔法」にかけられてしまったという。
 色は、はっきりしたものを選ぶ角野さんだが、デザインはシンプル好み。「自分が楽しくなければ、読む人も楽しくない」という考えから、執筆中は「いい気持ち」で筆を進められる、体を締め付けないゆるやかなものを着る。最近のお気に入りは、写真の英国の古着で、赤地に花柄のワンピース。角野さんが着ると、白髪が赤に映え、ヨーロッパのマダムのようだ。知人が作ってくれた「魔女の宅急便」のブローチも愛用している 

知人が作ってくれた「魔女の宅急便」のブローチも愛用している

外出着はボトムスは上質な生地で、スカートならひざ丈のタイト、パンツならストレート。上着は華やかにというのが、長年の経験から導き出した体形カバーに最適な組み合わせ。「でも最近、何でもないスカートが売ってない。流行のものばかりで」とお怒りの角野さん。それならばと、生地を買ってきて自作もしている。
 ただ、自分のスタイルに固執するだけではない。新しい服に挑戦するのも大好きだ。「人気のふんわりとしたチュニックブラウスを試着したら、若い子向けのお店だったから腕がきつくて買わなかった」とさらりと話す。長女で、同じ作家の道を歩むくぼしまりおさん(41)や、20~30代の編集者が情報源かつ良きアドバイザーだという。

 同年代の女性を見ていると、あいまいな暗い色を着て、「年齢を隠そう」とする人が多いのが気にかかる。「おしゃれはもっと楽しく自由に」。これが角野さんの若々しさを保つ呪文だ。

小物で遊ぶのが大好きな角野さん。カラフルな指輪の多くは海外で購入。「2~3ユーロ(300~500円くらい)のものがほとんど」とか 小物で遊ぶのが大好きな角野さん。カラフルな指輪の多くは海外で購入。「2~3ユーロ(300~500円くらい)のものがほとんど」とか
■人物略歴
 ◇かどの・えいこ
 1935年東京生まれ。早稲田大学卒業後、出版社勤務を経てブラジルで2年間暮らす。帰国後、70年ごろより絵本や童話の創作を始め、「ズボン船長さんの話」「小さなおばけシリーズ」など多くの作品がある。映画化もされた「魔女の宅急便」で、野間児童文芸賞、小学館文学賞受賞。近著に自選童話集「角野栄子のちいさなどうわたち」(全6巻、ポプラ社)。


前田有紀アナ、自慢の美脚でお色気リフティング自慢の美脚で見事なリフティングをキメた前田有紀アナ=東京・大手町(撮影・荻窪佳) 自慢の美脚で見事なリフティングをキメた前田有紀アナ=東京・大手町テレビ朝日のアナウンサー、前田有紀さんがAFCチャンピオンズリーグ2009のキャラバンとして来社
 テレビ朝日系サッカー番組「やべっちF 」(日曜後11・30)にレギュラー出演中の前田有 アナウンサー(28)が6日、東京・大手町のサンスポ編集局を訪れ、BS朝日で放送される「AFCチャンピオンズリーグ2 00 」(10日開幕)をPRした。自慢の美脚で見事なリフティングをキメた前田有紀アナ=東京・大手町(撮影・荻窪佳)
 真っ青なサッカーのユニホームで登場した前田アナはボールを蹴る姿も披露。「やべっち-」の司会を務めるお笑いコンビ、ナインティナイ 矢部浩 (37)らとフットサルもするそうで、「(元日本代表の)宮本恒 選手と試合をして、やべさんからのパスでへなちょこシュートを決めたこともあります」と笑顔。テレビ朝日のアナウンサー、前田有紀さんがAFCチャンピオンズリーグ2009のキャラバンとして来社  ガンバ大阪などJリーグ4チームをはじめアジア11カ国32チームが参加しアジア王者を競う。「アジア各国でプレースタイルが違うので、そのあたりも楽しんで」とアピールした。決勝は11月7日。CS朝日でも放送される。赤江珠緒アナ、村上祐子アナ、前田有紀アナ、大下容子アナ(撮影・浅野直哉)【撮影日:2005年01月21日】 赤江珠緒アナ、村上祐子アナ、前田有紀アナ、大下容子アナ前田有紀アナ【撮影日:2008年10月13日】 前田有紀アナ【撮影日:2004年11月28日】 前田有紀アナ(テレビ朝日提供) 前田有紀アナ【撮影日:2004年04月13日】   
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 フリースタイルスキー世界選手権の女子モーグルで初優勝し、声援に応える上村愛子=7日、福島県猪苗代町のリステルパークフリースタイルスキー世界選手権の女子モーグルで初優勝し、声援に応える上村愛子=7日、福島県猪苗代町のリステルパーク フリースタイルスキーの世界選手権猪苗代大会第5日は7日、福島県猪苗代町のリステルパークでモーグルを行い、女子は昨季のワールドカップ(W杯)種目別優勝の上村愛(北野建設)が24.71点で初優勝、来年のバンクーバー五輪代表内定第1号となった。       伊藤みき(中京大)は4位で、長野五輪金メダリストの里谷多英(フジテレビ)は9位となった。村田愛里咲(北海道・北海道尚志学園高)は19位で落選した。 男子は西伸(白馬ク)が5位、尾崎快(早大)が7位、附田雄(リステル)が15位で予選を通過、上野修(リステル)は38位で落選した。
女子モーグルで予選トップの上村愛子=7日午前、福島県猪苗代町のリステルパーク予選を1位で通過した上村愛子の滑走=福島・猪苗代(撮影・鈴木健児) フリースタイルスキー世界選手権の女子モーグルで初優勝し、ガッツポーズする上村愛子=7日、福島県猪苗代町のリステルパーク 女子モーグル予選トップで決勝進出を決め、笑顔で声援に応える上村愛子=7日、福島県猪苗代町のリステルパーク    精神面の弱さ克服 自分のターン技術信じる  フリースタイルスキー世界選手権の女子モーグルで初優勝した上村愛子=7日、福島県猪苗代町のリステルパーク上村愛子           上村は「小心者」と自己分析する。3度の五輪でメダルに届かず、大一番で力を発揮できなった。その精神面の弱さを克服した。  2006年トリノ五 は5位。再起を誓った同年秋、日本チームにラハテラ・チーフコーチが就任した。02年ソルトレークシティー五 男子金メダリストでずれの少ないカービングターンの名手だった。   同コーチは上村のターン技術に驚いたという。だが、一度失敗すると滑りが萎縮(いしゅく)することを見抜いた。「誰でもミスはする。自分の力を信じなさい」と言い続けた。  上村は「持ちが後ろ向きだと体が後ろに傾く。スキーも横になってスピードを抑えてしまう」と気が付いた。気持ちを強く持ち、エッジを雪面に食い込ませて滑るターンを意識した。ルールもカービング技術による高速ターンを重視する方向になり、追い風となった。  上村、難コースで実力見せつけ スキー世界選手権

 上村、トップで予選通過 里谷、伊藤も決勝へ スキー世界選手権

 西、大技決めて予選5位 スキー世界選手権

 肩を落とす上野 スキー世界選手権

 スキー中に衝突、高2重体

 体操出身の田原 初のフリースタイルスキー選手権

 世界との差を痛感 FSスキー世界選手権準々決勝敗退の滝沢 

 滝沢は準々で敗れ12位 フリースタイルスキー世界選手権

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 6歳児、リフトから転落 群馬のスキー場

はらこ飯(宮城県亘理町)阿武隈川河口の秋の味覚 サケの親子を一度に頬ばる


左の混ぜご飯風が昔ながらのはらこ飯。現在は右が一般的。サケ料理は他にも、あら汁やひずなます、焼きサケなど多様だ  海水浴シーズンが終わってしばらくたった10月、人口3万5000足らずの小さな町に、仙台はもちろん山形、福島県などからのドライブ客が立ち寄っていく。取り立てて観光資源があるわけではない亘理を訪れる目的は、はらこ飯。この料理を出す食堂や民宿が町内に20軒以上ある。
 港町亘理は川の町でもある。福島の甲子(かっし)山に端を発する阿武隈川は、須賀川や郡山を南北に貫いて宮城県南部に入り、亘理の荒浜地区で太平洋に流れ込む。総延長239キロは、東北では北上川に次いで長い。秋、母川であるその阿武隈川に3年~5年大洋を回遊したサケが帰って来る。
 亘理駅へは仙台駅から常磐線で30分ほど。駅前から車に乗り、荒浜地区婦人会会長の濱野かじ子さん(71)宅を訪ねた。台所では婦人会の仲間たちが、頭巾(ずきん)にエプロン姿で待機していた。
「昨日はテレビの取材があって、昔の作り方をみせてほしいって頼まれたっちゃ」と濱野さん「。昔の作り方」というのは、濱野さんが子どものころ、慶応3年(1867)生まれの曾祖母から教わった調理法。せっかくだからと、"元祖"の作り方を教えてもらった。
 用意するのは、雌サケ一匹に米2升。これに薄口しょうゆ、酒、みりん、砂糖があれば、15人分ほど作れる。まずサケの腹を割いて内臓、筋子を取り、身を3枚におろす。頭や骨はアラ汁に使う。   左から婦人会の渡辺としこさん、武者信子さん、阿部みや子さん、中嶋末代さん。その右が会長の濱野かじ子さん、亘理町役場の岡元比呂美さん、浜野さんの弟の金吾さん。料理は婦人会メンバーが手分けして作った
 皮付きの身はぶつ切りにして、酒などを混ぜた汁で煮る。この煮汁がはらこ飯の出来のポイント。10分~15分して身の色が変わったら火を止めて取り出し、冷ましてからバラバラにほぐす。
「気をつけるのがはらこ(イクラ)。熱を加えすぎると白く変色しちゃう」と濱野さん。筋子は塩入りのぬるま湯にくぐらせてザルにあけ、流水をかければ自然に膜が取れる。昔はダイコンの切れ端でこすって、膜を取ったという。
 サケとイクラを煮汁に戻し、イクラがつぶれないように混ぜる。これをさらに炊き上がりのご飯に混ぜて、器に盛るとできあがりだ。
 「ひいばあちゃんから教わったのは、漁師料理の混ぜご飯。最近は見た目に気を遣って、切り身とはらこをご飯の上にのせる店や家が多いっちゃ」と濱野さん。
 もうひとつ大きな違いは近年、煮汁を炊飯器に入れて米を炊くようになったこと。汁が米に染みて、味に丸みが出る。脂の多い雄の身を使う店もあるという。
変わりゆく大河の風景を 伝統料理を通して考える   炊き上がったご飯にサケとイクラの入った煮汁を入れてよく混ぜ、器に盛るとできあがり。亘理ではこの作業を「おか混ぜ」と言う 食卓はサケ料理づくし。アラはサトイモやニンジンと一緒にアラ汁に、余りの切り身は塩焼きにする。鼻先の軟骨は大根おろし、酢とあえて氷頭(ひず)なますに変わった。
 主役のはらこ飯を口にして衝撃を受けた。サケにもイクラにも馴染みがあるのに、当たり前の調味料しか使っていないのに、想定外の食べ応えとコク。煮汁とふっくらのご飯、ほぐしたサケがよく絡み、プチプチと弾けるイクラが合わさって、これはうまい。組み合わせとやり方次第で、料理の味がこんなに変わるのだと改めて知った。
 はらこ飯の発祥は不明だ。仙台藩主の伊達政宗が、北上川と阿武隈川をつなぐ貞山堀を視察した際、漁師がもてなしに考えたと伝えられている。だが、記録に残っておらず、伝承の域を出ない。
 濱野さんの父親も漁師だった。秋になると、風が凪いだ時間に出かけた。濱野さんが弁当を届けると、船上はサケであふれていた。市場に出す分を除いて数匹持ち帰るのが常だったという。亘理漁協によると、北洋や沖でのサケの漁獲量が増えた今、川に遡上するサケを取る漁師は30年前のほぼ10分の1、28人にまで減っている。
 翌朝、101日は漁解禁日。漁師の木村幸三郎さん(71)に河口での漁に連れていってもらった。
 「まだ時期が早いっちゃ。本番は10月の中旬から」とこぼしながらも、木村さんは護岸から仕掛けに向かって小型船を操る。

 川は町を包み込むように半円を描いて流れ、中州の先で海に出る。河口付近の川幅は広く、上流には全長663メートルの亘理大橋の赤いアーチが見えた。この橋が架かる昭和56年以前は、渡しが残っていたという。
 「刺し網」と呼ばれる定置網を手繰り寄せると、幸いにも3匹かかっていた。それを見た木村さんは「少ないから家で塩漬けか、はらこ飯にするっちゃ」とポツリ。

 それぞれに家の味があるのは、ほかのすべての料理と同じだ。移ろいやすい時代と風景の中にも、変わらないものがある。

イカめし(北海道函館市)

 日本人はイカが大好きだ。昨年の総務省家計調査によると、一世帯あたり年間3キロ)前後のイカを購入しており、マグロやサケを抑えて魚介トップ。この食卓の名脇役が主役を張るのが、函館のイカめしだ。 輪切りにしたイカめし。めくれた皮と中のもち米に甘辛い煮汁がよくしみている


スルメイカともち米が合う もっちりした歯応えの煮物

 スルメイカ漁が解禁になって間もなくの6月初旬の朝、函館港の卸売市場には生イカがぎっしり詰まった箱が並び、仲買人たちは活気に満ちていた。禁漁となる来年1月末まで見られる光景だ。

 北海道近海は三陸沖と並ぶ好漁場。中でも函館市は、年間約2万6000トン(平成18年)とダントツの水揚げ高を誇る。



星野さんの友人が集まり、イカ料理を囲んだ。左から山キヌ子、佐藤尚子、寺村静子、星野三津枝、吉沢英子、小笠原裕子さん

 スルメイカは秋から冬に東シナ海~山陰沖で卵を産み、日本海の対馬海流、太平洋の黒潮に乗って成長しながら北上する。北海道に着くころに成体になり、産卵のため折り返して南へ戻っていく。1年の寿命で、南北を回遊して種を維持しているのだ。

 「燃料の高騰で出漁する船が減ったから、今年のマイカは少ないね。でも味は良いよ」と言うのは、港の近くで水産加工業を営む星野浩治さん(66)。「マイカ」はスルメイカの通称。夜の海で、集魚灯の下に集まるイカを獲るイカ釣り漁船は燃料費がかさみ、最近の原油高のあおりを受けている。

 とはいえ、イカは"函館の魚"。朝市や鮮魚店は港から直送した「朝イカ」をそろえる。星野さんの店にも塩辛や一夜干し、スルメが並ぶ。市認定の"イカマイスター" でもある妻の三津枝さん(61)に、この「朝イカ」を使ったイカめしの作り方を教わった。

 用意するのは生のスルメイカともち米に、調味料の酒、みりん、しょうゆ、砂糖。まずはスルメイカの足と内臓を取り、水洗いする。スルメイカの腹にもち米を詰めるのに、三津枝さんは500ミリ・リットルのペットボトルの上部を切り、漏斗にして使っている。 森駅の「いかめし」470円。もち米とうるち米のブレンド米を使用。百貨店での販売利益が、総利益の約98%を占めるという

「気をつけるのは、味がしみる皮を取らないことと、爆発しないようもち米を入れすぎないこと」と三津枝さんがアドバイス。煮るとグッと縮むため、もち米はイカの3分の1ほどでよいという。

 楊枝で口を閉じたスルメイカを鍋に寝かせ、ここに水、酒、みりん、しょうゆ、砂糖を入れる。アクをとりながら1時間ほど煮たらできあがり。「やわらかくするには、弱火でじっくり煮るのが大切」と三津枝さん。冷ましてから輪切りにして皿に盛りつける。

 一切れを口にすると、イカの弾力にもち米のモチモチ感が重なり、かむほどに煮汁とイカのうまみが広がった。甘口のやわらかな味付けがさらに食欲をそそる。イカの身は高タンパクで低カロリー。コレステロールの排出を促すアミノ酸のタウリンも含まれている。

 卓上のイカ料理を味わってみて、日本人のイカ好きの理由がわかる気がした。刺し身や煮物、焼き物、酢の物、フライ、辛みそあえなど、イカは独特の歯応えと甘みを残したまま様々に姿を変え、しょうゆやみそともよくなじむ。

 「昔は刺し身とスルメ、塩辛だけだった」と浩治さんが言うように、イカめしが広まったのは戦後しばらくしてから。全国的な知名度を得るきっかけとなったのが、函館から函館線特急で約1時間の森駅にある駅弁「いかめし」だ。

 販売元の安部商店・今井俊治社長(60)によると、駅前旅館だった昭和16年に旅客や軍人に売ったのが始まり。昭和40年代、首都圏の百貨店で全国の駅弁を集めるイベントが始まって人気が沸騰した。京王百貨店新宿店の「駅弁の甲子園」では、売り上げ数1位40回を数える。「ファストフード的な安さとノスタルジックな要素がうけるのでしょう」と今井社長。駅弁を大都会で買う時代なのだ。

 この日泊まった湯の川温泉の宿からは津軽海峡に浮かぶ漁火が見えた。集魚灯や冷凍技術は進歩し、イカ料理の多様性はそのままこの国の食卓の歩みを映し出している。燃料高騰による打撃が、この歩みに水を差さないようにと願った。



サバ料理(福井県小浜市)

 「サバの生き腐れ」「サバを読む」は、サバの傷みやすさを意味として含んだ言葉。冷凍技術が未発達のころ、漁師たちはこの"足の早い"魚を調理するため工夫をこらした。旬を迎えるサバの独特の調理法を聞こうと、若狭湾に向かった。

脂が多いサバの鮮度と旨みを塩や米ぬか、麹を使って保つ技

 左から、近所の森東善二さん、野村才治さん。森下佐彦・道子さん夫妻と孫の希空ちゃん。山下程次郎さん、高鳥清春・梅子さん夫妻と孫の哲平くん

 リアス式海岸の好漁場を抱く若狭の国は、奈良や京都への海産物供給地で、かつては朝廷に「御贄(みにえ)」を献上する「御食国(みけつのくに)」だった。

 京都から若狭路を車で北上する。滋賀・高島市の朽木(くつき)宿、福井・若狭町の熊川宿のそばを通り、小浜で丹後街道につながる若狭路は"鯖街道"とも別称される古い街道だ。

 サバ料理を教えてくれるのは、小浜港に近い田烏(たがらす)地区で民宿を営む、漁師の森下佐彦さん(65)。田烏は入り組んだ海岸線に点在する集落のひとつで、民家や米蔵が山海に挟まれた坂に集まり、海を間近に眺めて美しい。


塩漬けのサバをぬか漬けしたへしこ。あぶると、酒のつまみや茶漬けによく合う

大衆魚のサバ自体、変わりつつある。福井県は昭和の時代まで国内有数の水揚げ高を誇ったが、昭和63年時の年間5000トンから昨年は250トンまで激減した。乱獲や海水温の上昇など様々な原因で漁場が移り、一方で北欧からの輸入が増えているという。

 森下さんはこの日、近海産のマサバを用意した。塩や酢で締めるのがサバのもっとも簡単な保存、調理法。昔は揚がったサバに一塩し、一昼夜かけて京都に運び込むころにちょうどよい塩加減になっていたとされる。

 「子どものころは、おかん(母)と山向こうの村まで行商して、塩サバや"へしこ"を売ったり、野菜と交換したりしたもんや」

 森下さんが言う「へしこ」とはサバのぬか漬けのこと。今も田烏などに残る伝統の味だ。

かつて若狭と京都を行き来する行商や旅人でにぎわった熊川宿。古い町家が残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている

作り方は、まず新鮮なマサバを背開きにして塩を振り、1週間樽に漬け込むと、「干潮(ひしお)」と呼ばれる水が染み出てくる。次に水分のなくなったサバに糠を振り、タカノツメ、干潮と一緒に再び樽に漬け、重石をのせて1~2年寝かす。水でぬかを落としてスライスし、そのままか焼いて食べる。イワシやフグを使うこともある。

 その名の由来は、干潮がなまったという説、樽に漬けるときの様子を漁師が「へし込む」と表現したという説など諸説がある。

 「盆を越さんと、うまない」(森下さん)のは、乳酸の発酵が夏の暑さによって促進されるため。冬にシケの多い北陸にあって、ぬか漬けは大量に獲れる秋サバを保存する手段だった。

 すしの原形と言える「なれずし」も工夫のひとつ。塩抜きしたへしこにご飯と麹を混ぜて挟み、2~3週間発酵させるとできあがる。正月に欠かせないハレの料理だ。

ほかにも、焼きサバと酢飯にショウガ、大葉を挟んだ焼きサバずしや、塩漬けのサバを湯で煮た船場といった料理が卓上に並んだ。

 どれも薄口の味付けで、軟らかなサバの身がホロリとくずれる。

 へしこはかすかにぬかの風味がして、かむほどに強い塩気、旨みが広がり、ご飯が進む。焼いたへしこの切り身を白米にのせ、茶をかけた茶漬けは、サバの脂、塩の辛さがほどよく茶に溶けて絶品だ。

 「つわりで食欲がないときでも、へしこをのせたご飯だけは何杯も食べられましたわ」と昔を振り返る近所の主婦、高鳥梅子さん(62)の言葉に納得。サバは不飽和脂肪酸のEPAやDHAを多く含み、栄養価も優れている。

 森下さんらと別れ、帰りは往路と同じ道を南下した。街道沿いで栄えた宿場町、熊川宿の老舗でサバずしを食し、大原経由で着いたのが終点・京都の出町柳。昔の若狭路とほぼ同じルートだ。サバ好きには堪えられない旅となった。