ウィーンの大スター・ハイドンに認められて、
ついにウィーンに進出したベートーベン。
(同じ時期に、ひっそりとお父さんは亡くなっています)
当時、22歳ごろでした。
いまでいえば、大学を卒業してはじめて社会に出るという時期でしょうか?
もっとも、当時の平均寿命が50~60歳でしたから、
ちょっと違うかもしれませんが、
若手の新鋭音楽家として、
ベートーベンは活動し始めました。
この段階では、
自分のピアノの腕前に磨きをかけながら、
作曲はハイドン師匠に手ほどきを受けたり、
今は亡きモーツァルトおじさんの楽曲を研究していました。
つまり、ピアニスト兼作曲家。
二足のわらじでした。
かなり生意気な弟子だったようで、
ハイドン先生に向かって、
ベートーベン「あんたに習ったことはなにひとつねえええ!!」
って怒鳴りつけた話が残っています。
(もちろん、しっかりとハイドンとモーツァルトの音楽の影響を受けまくった曲を作っていましたが・・・)
そして、
ついにベートーベンに1度目の運命が襲い掛かります。
20代後半になるにつれて、少しずつ耳が聞こえずらくなっていきます。
音楽家として少しずつ音が聞こえなくなっていく恐怖は
いかほどのものだったでしょう。
そして、28歳で最高度難聴者になります。
もはや音楽をやっていくのは無理かもしれない。
音楽家人生の終わりを確信したベートーベンは悩みに悩んだ末、
自殺を決意します。
そして、遺書までしたためて、
ついに死ぬ直前にベートーベンはあることにハッと気づきます。
「いままで俺がやってきた音楽は、
ウィーンの音楽だ。
ハイドン先生やモーツァルトさんが築いた、ウィーン風の音楽だ。
たしかに、明るくて気持ちのいいとってもいい音楽だ。
でも、その音楽では表現できない部分もある。
おれになら、もっとそれが表現できる。
もっと違う、
もっと工夫のこもった、
もっと緻密な、
もっとドラマティックな
新しい音楽がつくれるはずだ!
なんか知んないけど、
俺にはぜったいその才能がある。
俺にしかできない!!」
ときは、
1804年。
ベートーベンがどん底から復活して生み出した、
交響曲第3番・英雄が初演され、大成功をおさめた。
これまでにない大胆で巨大な展開と、
緻密な構成は、多くの人々を驚かせた。そして、喜ばせた。
これから、10年間を
ベートーベンの「傑作の森」と呼び、
ベートーベンの中期を代表する名曲が次々に生み出された。