「一汁一菜でよいという提案」土井善晴著 グラフィック社

 

ページをめくると最初に書かれてあるのは、

 

一番大切なのは、

一生懸命、生活すること。

一生懸命したことは、いちばん純粋なことであり、

純粋であることは、もっとも美しく、尊いことです。

 

家庭料理、日常の食事の大切さを説き、その根底に流れる日本人としての伝統的生活習慣や考え方、美意識、食育の大切さ等々を、時には縄文時代の人々へ思いを馳せながら、細やかにかつ実は大きなスケールで書かれた本だと思います。

 

でも、この本で一番言いたいことは、

 

日常の食事を立て直そう。日常に秩序を取り戻そう。その為には「一汁一菜」という実践しやすいスタイルから入って下さい。

 

ということ。

 

『それはとても簡単なことなんです。』

 

この「一汁一菜スタイル」の軸は、「ご飯と”具の多い味噌汁”」。

 

日常の食事は、別に取り立てて「美味しい」ものを求めているわけではなくて、

「いつもそこにある、あまり変わらない、食べ飽きない、」

そんなことだと著者は言います。広い意味で『安心』なのだと。

ご飯、味噌汁、香の物はまさにそれだと言います。

 

ここからひとり言、

なるほどなあ、、、私ごとき適当主婦だと、家庭料理は結果として「いつもそこにある、あまり変わらない、しかし家族は食べ飽きてるかもしれない、」ということになってしまうんだけど、

この本に書かれてある内容と、私が実際作ってる日常食(←本当に毎日3食作ってるし)は、クオリティーが違うんだろうな、、、、

と反省させられました。

 

この本にさり気なく何度も何度も繰り返し書かれてある、根本的な”嗜み”とか”慎ましさ”とか”謙虚さ”とか、”それぞれの素材を活かし合うさりげない足し算引き算の品の良さ”(←これ痛切に刺さった)とか、それらのことごとくがこの50代の私には全然備わってないじゃないか(涙目) 私は専業主婦だし毎日3食作ってるのに、読み進むにつれどことなく気が滅入る。。うう。。。単に作るだけじゃダメだよね。

 

その上、この本の軸である『お味噌汁』は日頃ほとんど作ってないなあと思い、せめてこれくらいは今後心掛けて作ってみようと思いました。

 

日々の味噌汁作りという、敷居が低く入りやすいところから入って、その奥へ奥へと、まるで京都の町家みたいに細い道を辿りながら奥へ奥へ導かれていくような本です。その道はくねくねとしながらも、昭和の懐かしい風景や夕餉の匂いとともに当時の台所や茶の間にふと読者を導いたりするのです。とはいえ、単に「昔は良かった」的懐古趣味だけでなく、私にとっては大変耳に痛い”日本人の美しい暮らし振り”や”物事に対する真摯な姿勢”が書かれてあって、読んでいて思わず姿勢を正す本でもあります。(精神的に姿勢を正すこと限りなく、、、だったのでヘトヘトになりました)

 

この本も、最後に書かれてある ”結びにかえて” が素晴らしいですね。全部読み通し、この部分を読むと、この本の最初に書かれてあった文章が沁みてくる気がします。

 

この”素晴らしい本”の主旨を読者ががっしり受けとめるには、実際に料理をすることですなあ。謙虚に。日々、お味噌汁を。

一食のバランスを考え、作る。そのセンスを教えてくださってます。興味深いです。

 

そうそう、”結びにかえて” に戻りますが、人生でどういう人達に巡りあうか、って大切なことなのだなあと思いました。この部分に書かれてあるのは著者にとって、”師”と仰ぐ方達との思い出です。素晴らしいというか、猛烈に謙虚なスーパーマンみたいな方達。きっと見た目はごく普通の感じの穏やかな雰囲気の方達なのだろうなあと思いました。

 

なんか、この本は立派過ぎて、腰が引けてる私ですが、そんな私に著者のこの言葉は救いとなりました。

 

要するに、「一汁一菜というスタイル(考え方)」が基本であればよいのです。

持続可能な一汁一菜のかたちをいつも頭において、何をどう食べるのかを決めるのです。ご飯がパンに変わっても、一汁一菜はできます。パスタと味噌汁でもよいのです。一汁一菜の柱である味噌汁は日本人の健康の要であり、やはり味噌汁だけは意識的に毎日飲もうと思っています。ご飯の代わりにパンの日があっても、トーストにバターやオリーブオイルを添えて味噌汁を食べてます。(76頁)

 

一汁一菜だからといって、ご馳走を食べないと決めるわけではありません。いろいろな日があるわけで、それでよいのです。お肉料理もサラダも食べたい。休みの日にはゆっくりして、遅い朝食、早い夕食で、ご馳走を作って楽しんで下さい。一汁一菜というスタイルを基本にして、暮らしの秩序ができてくれば、おのずから様々な楽しみが生まれるものです。(77頁)

 

そうなんです。この本は全体的にこういう優しいスタンスで書かれてあるのです。

 

〜〜〜〜ここから、くだらない話〜〜〜〜〜〜

 

が、

チクッ、チクッと鋭く刺さってくるものが散りばめられてます。

単なる偏見ですが、これって京都風?????  

和食を極めた方って、行き着くところはそこなのか?

 

この本を読めば分かりますし、御存知の通り「和食」はとんでもなく奥の深い世界で、その深さが私には絶望的な深さと思え、ちょっと恐ろしいし、軽口を叩けない雰囲気で、そんな空気の中では気軽に「味噌汁」なんて言えないというか、

 

ここからは更に完全なる妄想ですが、

 

一生懸命純粋に頑張って正座して足が絶望的に痺れて死にそうになってるのに、お焼香の順番が回ってきて、喪服を着て静まり返った親戚一同の前で綺麗に立って歩み出さなきゃいけない、、、そんな悲劇と喜劇が完全にマッチした、そんな目に遭わされそうな、

 

和食とか日本料理を取りまくヒタリとした怖い”何か”(伝統からくる敷居の高さ)を『和食を作ること食すること』に感じるのは仕方ない??それも伝統文化のなせる技?? そんなこと考えるのわたしだけ? 

 

「和食を作ってみたんですよ」それを場所も考えず無防備に言うと、

誰かの背後に精進料理を作ってるお坊さんとか茶懐石を作ってる風流人だとか立派なお母さんや料理教室で仕込まれた料理上手の主婦だとかそんな方達のオーラが束になってゆらゆら立ち昇るのが見えてきそうで、あー怖すぎ。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜

 

凡人が恐怖するその辺のことは、著者の方は分けて考えられてまして、『作る人と食べる人』の章で、『プロの料理と家庭料理 考』、『家庭料理はおいしくなくてもいい』、そして、『作る人と食べる人の関係』「レストラン(外食)」「家庭料理」と続き、『基準を持つこと』と項目を分けてわかりやすく考えを述べられてます。

ちょっとホッとしました。

 

しかしすごく厳しい世界なんだろうなあ、「和食」の世界って。(←たぶん著者がこの本で訴えたいことはそこじゃなくて、それどころか180°違うのでしょうが、著者は読者を選べないのですよ、澄みません。)

 

「厳しい世界」にもいろいろあるけど、伝統のあるものはどれも「基本」が大切で、それは、真摯に学べば学ぶほど、『自分はまだまだ出来てない」ことがわかることで、よって、学ぶほどその人は謙虚になる、謙虚になれば続けることが出来る ということなのかなあと、私にとってこの本で印象に残ったのは結局そこでした。基本とは秩序でもあると。

 

最後に、興味を惹かれた部分を書き抜きます。

 

112頁からの『味覚』の中に述べられている文章です。

 

素材を生かすことが、和食の理想です。その洗練されたおいしさはどこにあるのかと言いますと、アクを抜いた、白くした、雑味をなくした、食材の核のようなところに、あるのです。玄米を白米にすることも、吟醸酒を造る米の表面を深く磨くことも、そのような考えから生まれたものです。雑味や雑臭のあるところでは、感じることもできなかった、微妙で繊細な美味(または美臭)があるのです。

 

中国やヨーロッパでは、豚の内蔵や血も一切無駄にせず、ソーセージなどに加工して食べます。しかし、日本では、ほとんど筋肉しか食べないし、魚のアラ(頭や骨)もハレの場では使わず、ケの料理の食材とします。きれいなものを極めて生かすのですが、それと同時に、不要であるとしたものを捨ててしまうのです。「もったいない」が日本の心として世界に評価されていますが、実はびっくりするほどもったいないことをするのも日本人です。浄、不浄の区別、清らかなものと清らかでないものとしての穢れの発見が、あらゆるものに対極性を持たせる観念を、深く根付かせたのでしょうか。輝く光は、深い闇を作るものです。物事に尋常ではない清らかさを求めるがゆえに、闇が現れて、両極の二面性が表裏にあることを無意識のうちに感じ、無意識の行為として、その両方を当たり前におこなってきたのです。今、私たちは、自分たちの内にある両面性を認め、目を伏せず、当たり前でないものとして意識的に考えることで、稀有な日本人の高貴性を失わず持ち続けることにつながると考えています。

 

食材の中に隠れていた真性を、アクを抜くことで澄ませ、際立てることは、日本人がもっとも好むおいしさの表現となっています。だから、キレ味(後口が良い)、すっきり(雑味のない)、軽み(重くない)といった和食の味の表現は頻繁に用いられ、よく耳にするのです。

 

一本の木から仏像を掘り出すことはマイナス的彫刻と言われ、粘土を加えて造ることをプラス的彫刻と言います。そういう意味では、和食はマイナス的料理です。アクを除くことで、ときには味も栄養価値も失うことになるのですが、完全ではないにしろ、無味化することを喜ぶのです。澄んだだしを尊ぶのは、無味化したものに、うま味という味の質感を補うという考え方です。味蕾で感じる味の不足は「目で食べる」という視覚や、触覚で充分に補われているのです。

 

この本も、一回読んだだけじゃ、私には消化できない本ですな。

敷居の低い”家庭料理という日常食である和食”を通して、心優しい著者の強靭なる思想が書かれてある本だと思います。