先生の生徒達のリサイタルがありました。
参加出来なかった生徒さん方も多数いらっしゃいましたが、それでも20人ほどの参加でした。
3時間以上かかりました。
うちはふたりとも参加しました。
こういうリサイタルを随分聴いてきました。 なので、昔の生徒さんが弾いていた曲を今の生徒さんが弾いたりすると、昔の生徒さんの姿がオーバーラップしたりして、ひとりで感慨にふけったりしました。
先生は開拓精神が旺盛な方なので、どんどん新しい曲を生徒に弾かせます。なので、あまりオーバーラップはないのですけどね。
今日のリサイタルで気づいたことを書いておきます。
音っていうのは、空間に発生した時点で、もう自由に短い生命をもって飛び出してしまったんだからそれを楽しんで聴いてあげた方がいいなあ と思いました。
今更整列させることなんて出来ないし、その時の空間の構造や湿度や温度などで飛び出した音は私達の予測を越えた響きをしたりするんじゃないか、それを楽しんだり驚いたりした方がいいんじゃないかと思いました。
あまりにも、ピアニストが自分の手の内で音達をコントロールしようとすると、息苦しいと思いました。
何て言うんだろう、、、、、、ぎちっと並んだ音が好きな専門家もいらっしゃることとは思いますが、私はもっと自然ってものに敬意をもって色んな条件下で響く音を真摯に聴くことが大切なんじゃないかなって思いました。
あまりにコントロールを追求し睨みつけた音って、響いたとしてもそこに”夢”とか”希望”とか、そういう儚くも美しいものが漂う余地が残されてないようで、なんとも味気ない「完璧さ?」っぽい形だけがあって、こういうのってどうよ?と思ったことでした。 辛辣過ぎるかな?
子供の場合、まだ本人が気づいてなくて、音が語ってないことが多いです。でも、本人はおおよそ気づいてるのに、全て自分でコントロールしたいが為に、”音”に語らせないという、そういうこともあるんだって、今日気づきました。 配置はあってるのだと思います。意図もあってるんだろうと思いますが、繊細な表情や移ろいみたいなものが、本人のコントロール欲によって整然としたアスファルト道路のように塗り固められている。 そんな印象を持ちました。 都市計画としては「なんか、凄い~、完璧そう~」という印象を持ちますが、じゃあ、実際住んでる人達は憩いを感じたり、住み良い空間を感じたりしてるか?そういう疑問をもっちゃうような演奏って、、、、、私の発想が飛躍し過ぎだよね。 すんません。
きっと真面目で一生懸命なんだと思います。人一倍賢いんだと思います。でも、何を求めてるんだろうという疑問がね、湧くんだよね。 きっと試行錯誤中なのかな?自他ともに認める実力者だろうしね。 そうそう、おばはんの余計なおせっかいな感想でした。 ちゃんちゃん。
おっと、これも書いておこう。 今までリサイタルといっても、先生はひとりで、または自分の音楽仲間を連れてきて、楽譜を睨みつけながら一番前の席でずっと生徒の演奏を聴いて書き込んだりしてました。
そして、自分のお気に入りの生徒にだけ、演奏後にコメントを長々と伝えてました。他の生徒は適当に無視でした。もちろんうちの子達も無視の対象でした。 たま~に、話しかけてきてもそれは、物凄いため息と「まるでダメ」という絶望的なコメントばかりでした。
でも、今回先生は会場の後ろのテーブルに陣取られて、弾き終えた生徒ひとりひとりにコメントをわざわざ足を運ばれて伝えられてました。 会場全体の雰囲気を常に見渡されてました。 私なんかにも話しかけて下さいました。どんな生徒にも褒め言葉を伝えられてたんじゃないかな?雰囲気的に解釈して。
一体、この大変化は何なんだろう?
時代は変わったのか?それとも一時の気紛れなのか? 知りませんし私なんぞにわかるわけ無いですわな。
「執着しないこと」 これをモットーにピアノを頑張りたいと思います。
参加出来なかった生徒さん方も多数いらっしゃいましたが、それでも20人ほどの参加でした。
3時間以上かかりました。
うちはふたりとも参加しました。
こういうリサイタルを随分聴いてきました。 なので、昔の生徒さんが弾いていた曲を今の生徒さんが弾いたりすると、昔の生徒さんの姿がオーバーラップしたりして、ひとりで感慨にふけったりしました。
先生は開拓精神が旺盛な方なので、どんどん新しい曲を生徒に弾かせます。なので、あまりオーバーラップはないのですけどね。
今日のリサイタルで気づいたことを書いておきます。
音っていうのは、空間に発生した時点で、もう自由に短い生命をもって飛び出してしまったんだからそれを楽しんで聴いてあげた方がいいなあ と思いました。
今更整列させることなんて出来ないし、その時の空間の構造や湿度や温度などで飛び出した音は私達の予測を越えた響きをしたりするんじゃないか、それを楽しんだり驚いたりした方がいいんじゃないかと思いました。
あまりにも、ピアニストが自分の手の内で音達をコントロールしようとすると、息苦しいと思いました。
何て言うんだろう、、、、、、ぎちっと並んだ音が好きな専門家もいらっしゃることとは思いますが、私はもっと自然ってものに敬意をもって色んな条件下で響く音を真摯に聴くことが大切なんじゃないかなって思いました。
あまりにコントロールを追求し睨みつけた音って、響いたとしてもそこに”夢”とか”希望”とか、そういう儚くも美しいものが漂う余地が残されてないようで、なんとも味気ない「完璧さ?」っぽい形だけがあって、こういうのってどうよ?と思ったことでした。 辛辣過ぎるかな?
子供の場合、まだ本人が気づいてなくて、音が語ってないことが多いです。でも、本人はおおよそ気づいてるのに、全て自分でコントロールしたいが為に、”音”に語らせないという、そういうこともあるんだって、今日気づきました。 配置はあってるのだと思います。意図もあってるんだろうと思いますが、繊細な表情や移ろいみたいなものが、本人のコントロール欲によって整然としたアスファルト道路のように塗り固められている。 そんな印象を持ちました。 都市計画としては「なんか、凄い~、完璧そう~」という印象を持ちますが、じゃあ、実際住んでる人達は憩いを感じたり、住み良い空間を感じたりしてるか?そういう疑問をもっちゃうような演奏って、、、、、私の発想が飛躍し過ぎだよね。 すんません。
きっと真面目で一生懸命なんだと思います。人一倍賢いんだと思います。でも、何を求めてるんだろうという疑問がね、湧くんだよね。 きっと試行錯誤中なのかな?自他ともに認める実力者だろうしね。 そうそう、おばはんの余計なおせっかいな感想でした。 ちゃんちゃん。
おっと、これも書いておこう。 今までリサイタルといっても、先生はひとりで、または自分の音楽仲間を連れてきて、楽譜を睨みつけながら一番前の席でずっと生徒の演奏を聴いて書き込んだりしてました。
そして、自分のお気に入りの生徒にだけ、演奏後にコメントを長々と伝えてました。他の生徒は適当に無視でした。もちろんうちの子達も無視の対象でした。 たま~に、話しかけてきてもそれは、物凄いため息と「まるでダメ」という絶望的なコメントばかりでした。
でも、今回先生は会場の後ろのテーブルに陣取られて、弾き終えた生徒ひとりひとりにコメントをわざわざ足を運ばれて伝えられてました。 会場全体の雰囲気を常に見渡されてました。 私なんかにも話しかけて下さいました。どんな生徒にも褒め言葉を伝えられてたんじゃないかな?雰囲気的に解釈して。
一体、この大変化は何なんだろう?
時代は変わったのか?それとも一時の気紛れなのか? 知りませんし私なんぞにわかるわけ無いですわな。
「執着しないこと」 これをモットーにピアノを頑張りたいと思います。