誤算に誤算が重なり | 面怒宇九斎のブログ

誤算に誤算が重なり

「看取りサービス」に切り替え穏やかな生活を過ごしていたが3月に入り、整理好きな相棒は箪笥の整理をしていて倒れ、週明けにレントゲンを撮ったら「大腿骨骨折」…入院してまでの治療はお断りの筈だったが、「骨折=手術=入院」は止むを得ない。第一の誤算だ。

 

術後、全治3か月で少なくとも1カ月は入院と説明する医師を「施設の介護棟及びリハビリも施設で…」と説得し、一週間で退院した。

リハビリも順調でもぅすぐ車椅子から卒業の芽が出た頃の6月2日…TVの右側1/3の映りがオカシイ…画面の右下に強い打痕があり何かをぶつけたのは明らかだが…、相棒に聞いても「記憶にありません」(国会答弁じゃあるまいに、記憶が飛ぶ病気の影響か?)…買ったばかりのTVの寿命が8カ月だったと諦めるしかない。

6月3日、頸椎と椎間板からくる痺れは歩行困難に追いこまれ三度目の「ブロック注射」の処置をしてもらっている時に施設から電話が入り、相棒がまた転倒して手首を痛めたとの連絡…注射して1時間は安静なので直ぐには動けず、病院への移送をお願いした。

 

レントゲン撮影の結果は「左手首骨折」…6月9日入院翌日手術が決められた…入院するのを嫌がっていたのに。第二の誤算だ。 まぁ大腿骨骨折に比べれば……この時は相棒も私も軽く考えていた。

 

10日の午後の手術…1時間強ですから病室でお待ち下さいと言われ待っていた。

 

2時間経ち、3時間経っても戻ってこない……。

 

やっと戻って来た時には意識不明…手首の骨折手術は上手く行ったのだが、手術中にパーキンソン病の副作用に見舞われ意識が戻らない状態だと……。第三の誤算は思いもよらぬものだったし、説明も「はて?」という感じだった。

 

意識が戻らない、食事が出来ないから点滴、薬も飲めないから点滴…長期戦になるなら個室に変えてもらった。 1週間後、外科的にはこれ以上は手を尽くせないので応援してもらっている脳神経内科に移り治療を進めるので内科の個室に変更。

 

…事情は変わらず時間だけが流れていく。

 

19日病院から呼ばれ、「今日・明日がヤマになるだろうから連絡したい身内の方を呼ぶ様に」と言われ息子へ連絡。 介添え人ベッドを入れてもらい泊まり込み体制をしく。

 

時々、瞬間的に意識が戻る時があるが言葉は出ない。

 

ヤマと言われた日を超えたある時、私の手を握り何かを訴えたい様だが酸素吸入器を外しても言葉にならない。 思わずスマホで動画撮影(何故自分がこの行動をとったのか今でも判らない)。「バカヤロ~」と言われた時の様子が蘇る。

 

 

医師に家族は覚悟している若い時から尊厳死協会に登録しているのは今の様に点滴のチューブが5本、6本の繋がれて生き延ばされるのはお断りだ…と言うのが彼女の意志で、その事は主治医も承知していると訴える。

 

 

左の写真は’85年の夏、当時アリゾナに居た兄家族を訪ねた時に撮った四人の従弟の写真。義姉と共に来てくれた。 「ほら、あの時赤ちゃんだったJ君は今41歳だってヨ」と声を掛けたらニッコリ笑った…意志の疎通が出来た事が奇跡の様に思える。

 

息子は土日が余人に替えられない撮影の仕事で東京に戻らねばならず、私も病院に泊まりこみと言っても頸椎と椎間板の痛みで殆ど寝られず限界に達して、相棒が私の二人目の息子と呼ぶN君が代わりに泊まると名乗りを上げてくれた。何となく明日が「その日」になると漠然と考え、その夜は自室に戻り久し振りに熟睡するつもりが変な夢を見た。

 

翌23日…19日に今日明日がヤマと言われた時から23日だろうと思ったのは誕生日が4月23日なので、「月命日が23日にするから忘れないでネ」…相棒ならそう言いかねないな~と思っていただけで根拠は無い。

 

奇跡が何度か訪れ、意識不明に陥った筈なのに何度か会話が出来た。 N君とスマホを見ながら会話をしたり、「何か食べたいものは有るか?」と問えば、「プリンが食べたい」と言う。 看護師に聞けば「?」、じゃ好きなバニラアイスにしようと言い頷くので1階のコンビニに…。 少し、ほんのチョッピリ掬って口に運ぶ…美味しいか?と聞けば「美味しい……、でも後が大変なのよ」と言うと咳き込む。

相棒の最後の食事は「バニラアイス(食事じゃ無いか)」

 

夕方、息子から仕事が終わったというの「すぐに来た方が良い」とだけ伝えた。急いで来いと言って事故でも起こされたら相棒が悲しむだろう。血中酸素は50を切りもぉ測定の意味がないとの判断だろう…測定器も外された。

 

 

息子夫婦が駆けつけ、医師が午後7時09分死亡を確認。

 

「死亡確認しても声は届く」と言われ、四人が口々に何かを語り掛ける……。

 

不思議なものだ、あれだけ声を掛けたのに誰が何を言ったか覚えていない。

 

只、相棒の最後の言葉は覚えている……これだけは忘れる事は無い。

 

「ありがとう」が最後の言葉だった。