身体(命)に触れるという大切な視点
この視点は私が施術に向き合う上で何度でも立ち返らなければならない最も大切な原点です。私が「体に触れる」ときそこにあるのは、ただ物としてのパーツの集合体ではありません。それは、絶えず移ろい、自律して生きようとする「命そのもの」です。命をどう見るかそれは、固定された正解(原因)を求めることではなく、刻一刻と変化し続ける壮大な営みに、ただ静かに寄り添うことではないでしょうか。指先が皮膚に触れるその一瞬、私たちは一人の人間の歴史と、壮大なシステムに触れています。その重みを分かち合い、命の在り方に立ち返るために、改めて書き記します。■ 世の中には筋膜をリリースする、神経を通す、関節を動かす、あるいは筋肉を緩めるといった、実にさまざまな施術のアプローチが存在します。しかし、その手法がどのようなものであれ、「皮膚」という境界線に触れることなく深層へと到達することは、物理的に不可能です。ここで私たちが自覚すべきなのは皮膚という入口に触れた瞬間には、すでに「すべての組織に同時に触れている」という事実です。例えば羽毛が一枚フワッと頭にのる意識には感じる事の出来ない程軽いものですが実際、その重みは身体を通り足の裏から地面へとちゃんと伝わっています。これは、どれほど軽く触れようとも、その圧は皮膚を通して全ての組織へと伝わるということ。私たちの指先が身体に触れる瞬間そこには皮膚も筋膜も筋肉も神経も骨も境界なく溶け合った一つの存在であります。これらは決してバラバラの部品ではなく、すべてが「一つの命」として響き合い、互いに影響し合って生きている、優劣のない対等な関係にあります。■ いのちの声は、言葉で安易に理解できるようなものではない。空に浮かぶ一つ一つの雲に「そこに生まれた理由や意味」を問うことができないように、私たちの身体も日々移ろい、絶えず細胞は生まれ変わっています。この世界も、あなたも、私も、形あるものは景色のようにいつか移ろい、消えゆく存在です。その「無常」のただ中で、全身の組織がひとつの時代と景色のように今この瞬間にしか生まれない表現に耳を澄ますこと。皮膚、筋膜、筋肉、神経。どれが主役ということもなく、すべてが対等に響き合いながら、絶えず変化する「命」を表現しています。昨日と同じ景色は二度となく、一秒先にはまた別の調べへと移ろっていく。その一期一会の変化をありのままに受け止めること。それこそが施術の本質ではないでしょうか。施術者が「何に触れているか」という自覚を欠いたまま、目先の痛みを取り去ることや姿勢を整えることだけに終始するのは、身体が懸命に築いてきた適応の歴史を否定することに他なりません。無自覚な介入が生む「ズレ」は、数年という歳月を経て取り返しのつかない大きな歪みとなり、命の質を損なう原因となります。私たちは、その「ズレ」を作る存在ではあってはならないのです。その場だけ楽に、姿かたちだけ整ったようにそれならば、何もしない方がいい。■ 身体のメカニズムは私たちがコントロールできるようなシステムではなく途方もなく壮大で緻密な命の営みそのものなのです。施術家は、疾患や症状がどのような背景でつくられてきたのか、そして今、移ろいゆく命が「何になろうとしているのか」という静かな訴えに、耳を傾ける必要があります。私たちが扱っているのは単なる肉体という「物」ではなく、外界と常に対話し、変化し続ける「命の全体性」です。■「手当て」の在り方とは私が何かを成し遂げることではありません。ただ命だけが知りうるその営みと在り方を信じ、そこに戻るための「きっかけ」や「道しるべ」を作ること。向きを変えるためのほんの少しのきっかけを置くだけなのです。命は、本来の場所をすでに知っています。きっかけさえあれば、自分の力でまた歩み出すことができます。時には寄り道をしたり、道が険しくて怪我したり、立ち止まったりすることもあるかもしれません。それでも、「こっちだよ」と何度も何度も静かに伝え続ける。私たちは、ただ移ろいゆく景色の一部として、生命が再び巡りだすのを静かに見守る。その一瞬の関りの中にこそ触れる側と触れられる側の双方が自らの命に立ち返る、調和という世界が大切に広がっていきます。