毎年、父と母と見た桜が今年は4月3日頃から咲き始めました。
わざわざ散歩して見に行っていた川沿いの桜。
父がこの桜を見れなくなって2回目の春が過ぎようとしています。


 

 

 確執

 

 

とにかく厳しい父でした。幼い頃、好奇心旺盛な私はしたいこと、行きたいところがいっぱいあったのに、父はほとんどのことをダメだと許可してくれませんでした。
門限もあり、私にとって父親との生活は窮屈でした。

今なら問題なるDVも昭和7年生まれの父には当たり前のことだったのでしょう。娘でも容赦なく手をあげ、何度叩かれ、蹴られたかわかりません。そんなわけだから、いつしか父との間には確執が生まれました。

 

中学2年の夏休みに入る前。何がきっかけか覚えていませんが、父の逆鱗に触れたようで、父から暴力を振るわれ、「誰に食わしてもらってると思ってるんや」と暴言を吐かれましたー。その日から私は(絶対に家を出る)と決意しました。

 

ひとりで生きていける職業はないか・・・
看護師は、そう言う理由で選んだ職業でもありました。

 

結婚後は年に1度帰省する程度の疎遠な親子関係でしたが、会うたびに年老いていく両親を見て、「介護に通うのは無理。大阪に来てくれたら助けることはできると思う」と提案しました。

数年後、父は転居を決めました。
自分が建てた家を売ることはつらかったと思います。

 

一方私は頑固な父との関係に少し憂鬱な気持ちになっていましたが、父は大阪に転居したその日に、「お前に世話になることになる。今後はすべてお前に従う」と発言したのです。驚きでしたが、それ以降、父はその言葉を守り続け、私の判断に意義を唱えることは一度もありませんでした。そういう芯のとおったところがある人でした。

 

だからこそ、こんな最期を迎えさせたことが申し訳なくて仕方がないのです。
父から何度も、「延命処置はしないで欲しい。それは私の生き方に背くものだ。それだけは頼む」と言われ続けていました。
その話しが出るたびに私は、「最近は、意思確認なしで蘇生はされない。大丈夫。私が絶対に蘇生はさせないから安心して」と言い続けていました。

 

それなのに、医誠会病院はDNR(蘇生処置拒否)の意思確認を怠ったせいで、父はあれだけイヤだっていた心肺蘇生を施され、気管挿管され、人工呼吸器をつけられ、昇圧剤を使われると言う、望んでいなかった処置をされてしまいました。

 

 

 自己決定権の侵害

 

医誠会病院は、父の死因は透析の遅れだけじゃなく高齢でコロナ感染も要因だったと主張するなら、父が急変、死亡に至ることも想定して、DNRの確認を行うべきだったと思います。それは電話でもできることです。

 

医誠会病院が、”原告のすべての主張を棄却する”と言うなら、医誠会病院がやったすべてが正しかったと証明して欲しいと思います。
私は、父が亡くなった要因は、医誠会病院の行ったことのすべてが、ベストな選択ではなかったからだと思っています。