【初読】 乙一『ZOO 1』 集英社文庫
こちらも妹から借りました。
昔に書店で見かけたときは単行本だったので、お財布と相談した末購入を諦めたのですが、こちらは文庫版。文庫版は2冊に別れているんですね。
5編収録された短編集。ほとんどが暗めのお話です。
以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。
『カザリとヨーコ』
「ママがわたしを殺すとしたらどのような方法で殺すだろうか」
冒頭の一文からすでに不穏です。
双子の妹・カザリばかり可愛がり、主人公のヨーコを虐待するママ。それも、食事を抜いたり叩いたりなどという生易しいものではありません。虫の居所が悪いと、目が合っただけで包丁を投げつけてきます。とんでもない母親です。
何かと理由をつけては、歯を折ったり、タバコの火を押し付けたり、灰皿で殴ったり。もはや拷問です。なぜヨーコがそこまでママから憎まれているのかは分かりません。
ママは家の中でだけ強気になるタイプで、外でのストレスを全てヨーコにぶつけて発散しています。実の娘をサンドバッグ代わりにするなんて、母親としては最低です。どうしてそんなひどいことができるのでしょう。虐待はこの家に父親がいないことと何か関係があるのか、それともママ自身が幼少期に虐待を受けていたりして、娘に同じことをしているのか、などといろいろ推測してみましたが、まあ、どんな理由があるにせよ、決して許して良い行いではありません。
カザリに対しては良い母親として振る舞っているのがなおさら酷いです。
妹のカザリの方は、性悪で、姉を見下しては悦に浸る嫌な子です。が、これは母親の教育が原因でしょう。ある意味では彼女も被害者です。本来はヨーコと同じくらい素直で優しい性格で、ヨーコの方もまた、真っ当に育てられていればカザリと同じように明るい女の子になっていたのだろうと思っています。一卵性の双子で、じゃんけんで三十回連続であいこになるくらい、本質的な差異はない姉妹なわけですし。
台所で寝起きし、妹の食べ残しを食べ、学校でも周りから白い目で見られているヨーコ。そんな自身の生活を淡々と受け止めているあたり、辛さや苦しさを感じる心はだいぶ麻痺してしまっているようです。しかし、これまでに何度もビルの屋上から飛び降りようとしていたり、現状に何も感じないわけではありません。あくまで苦痛に慣れているだけです。
そんなヨーコにとって、スズキさんや犬のアソとの交流は、唯一安らげる時間だったのだろうと思います。一緒に食事をしたり、散歩に行ったり。ヨーコがスズキさんのお手伝いをしている様子は、おばあちゃんと孫そのものでした。
特に印象深いのは、二人が一緒に旅行に行こうと話している場面です。
「旅行に出たままもう戻ってこなくてもいい?」とたずねるヨーコに対し、
「ええ、そのまま世界を旅しましょう。あなたをわたしの孫ということにして」と答えるスズキさん。
もしかすると、スズキさんはヨーコの「優しいママと妹がいる」という話を嘘だと見抜いていたのかもしれません。汚れた服にぼさぼさ頭の彼女の様子は、とても話通りの幸福な女の子には見えませんから。
この場面のヨーコは作中で一番幸せそうです。
このまま本当に、二人でと一匹で世界中を旅して欲しかったところです。
が、そんな幸福な夢はあっけなくやぶれます。大好きなスズキさんは風邪をこじらせて亡くなってしまい、自分を待っているのは性悪な妹と悪魔のような母親だけ。どこにも逃げ場はありません。地獄です。
状況を考えると、物語の最後にヨーコがとった行動はそう意外なものでもありませんでしたね。代わりに死んだ片割れは可哀そうかもしれませんが、もうこれしかヨーコが生き残る方法はなかったと思います。
我ながら意地の悪い興味ですが、ママの反応を見てみたいところです。自分が殺した方がカザリであることを知ったら、一体どんな反応をするのでしょう。そもそも、服を交換した程度で取り違えるあたり、彼女の愛情がいかに表面的であったかが窺い知れるというものです。
結局のところ、どちらでも良かったのだろうと思います。子供が二人産まれたから、片方を可愛がって片方は鬱憤晴らしのサンドバッグにした。そしてたまたまサンドバッグ役が姉のヨーコだった、ということなのでしょう。何なら、カザリを異常に可愛がることすらヨーコに対する精神的虐待の一環だったのでは。
ラストシーン、アソを連れて夜の闇の中に消えていくヨーコ。行くあてもなくお金もなく、とても希望があるとは思えない逃避行です。できるだけ遠くまで行って、安らげる居場所をどこかに見つけることができれば良いのですが。
どうか、強かに生き延びて欲しいものです。
『SEVEN ROOMS』
道を歩いていたところを突然何者かに襲われ、見知らぬ部屋に閉じ込められてしまった「ぼく」。怖すぎます。おそらく日中の、ごく普通の遊歩道を歩いていただけなのに。
主人公の「ぼく」は十歳の少年、隣には一緒に誘拐されたもうすぐ高校生になる姉の姿があります。
二人が閉じ込められているのはコンクリート製の小さな四角い部屋で、窓はなく扉は重い鉄製、頭上には裸電球が一つ。それから排水路らしき、怪しげな溝が一本。どう考えてもまともな用途に使われている部屋ではありません。
外に人の気配はあるものの扉が開かれることはなく、毎朝食パンと水だけが扉の下の隙間から差し込まれます。犯人の意図が分からず、神経をすり減らしていく二人。脱出の手掛かりはないものかと、行動を始めます。
汚水に潜って排水路づたいに部屋を移動する、という主人公の決死の努力の甲斐あって、全部で7つの部屋が並んでいること、自分たちの他にも囚われている人がいることが判明します。主人公、勇敢ですね。状況が状況とはいえ、悪臭を放つ濁った水の中に潜るのは、なかなか勇気がいる行為です。しかも溝の用途が判明してからも潜り続けますからね。豪胆にも程があります。
一日に一人ずつ部屋の中で殺され、空いた部屋はまた人で補充される。それがこの部屋の真実でした。どの部屋にも、女性が一人。主人公たちの場合は子供なので二人で一部屋にされたようです。
とんでもない異常者に捕まったものです。脱出不可能な部屋の中、ただ死を待つばかりとは。あまりにも理不尽で怒りすら湧いてきます。どうして彼らがこんな目に?
そしてバラバラにされたあと、死体は例の溝に流されます。それを見ながら、自分たちが殺される順番を指折り数えて確認する主人公。むせび泣く姉と比べて、ちょっと冷静すぎやしませんか。
部屋の構造と自身の運命を理解してからの、主人公の異様な落ち着きは印象的でした。まだ十歳の男の子が、死を前にして泣きも喚きもせず、痛いんだろうな、などと考えている。
他の犠牲者たちにしろ、これから自分が殺されることを知っているにも関わらず、直前まで主人公と穏やかに話していたり、歌を歌ったり。もう諦めていたのでしょう。助かることはないと。
だからこそ、最後まで諦めなかった姉の姿が際立っていました。
運命の日、部屋にやってきた男に対し、囮になって注意を引く姉と、隙をついて部屋を飛び出す主人公。手はず通り、彼は部屋の外から閂をかけます。これで部屋の中には男と姉の二人きり。男を逆に部屋に閉じ込めてやったわけです。一緒に閉じ込められた姉の方はこれから惨たらしく殺されるでしょうが、少なくとも主人公や他の人々は脱出することができました。
姉の献身には、言葉もありません。
このまま主人公たちが無事に脱出を果たして、家族と再会できれば良いのですが。
階段を上った先は明るい外の世界のはずです。まさか、さらなる絶望が待ち構えているとか、そういう展開ではないと思いたいのですが、可能性がないわけではないので若干不安です。
犯人の男については、性別以外の情報が一切不明、というのが非常に不気味でした。
最後まで読んでも、ただ機械的に人間を切り刻む謎の男だということしか明かされませんでした。顔の無い、死神のような存在です。やっていることから考えて猟奇殺人鬼のたぐいなのでしょうが、それにしては殺人を楽しんでいる様子などが全く見られません。犠牲者を切り刻むときも棒立ちのまま無感動に電動のこぎりを突き刺すのみで、むしろ仕事でやっているのだと言われた方が納得できるような様子でした。本当に何者だったのでしょう。
勝手にホッケーマスクか麻袋を被っている姿をイメージしていましたが、これはたぶん電動のこぎりを持っていたせいですね。本文中にそんな描写は一切ありませんでした。
『SO-far そ・ふぁー』
タイトルが掛詞。センスを感じます。
複雑な三人家族の生活のお話です。主人公の「ぼく」が幼稚園児だったころ、突然、お父さんは死んだのよと言い出した母親。そして全く同じタイミングで母さんは死んだんだと言い出した父親。しかし主人公にはどちらの姿も見えています。
主人公からすれば確かに二人とも存在しているのに、父親と母親はお互いの存在を認識していません。母親は二人分しかご飯を作らず、父親はコンビニ弁当を二つ買ってきます。当然ながら戸惑う主人公。不思議なことに、父親には母の作ったカレーライスは見えていないのです。
そのうちに、そんな状況にも慣れてきた主人公は二人の通訳をし始めます。居間のソファーの左手に母が、右手に父が「ぼく」を挟んで座っており、二人はお互いの姿は見えていないものの、「ぼく」を通して会話をすることができます。「お父さんにこう伝えてちょうだい」「母さんにこう言ってくれ」と、伝言ゲームのように。
このお話は展開が面白いですね。
主人公はある時を境に父と母の片方ずつしか認識できなくなり、父といるときは母の姿が、母といるときは父の姿が見えなくなってしまいます。
そしてその後、父より母と生きることを選んだため、父の姿を完全に認識できなくなってしまいました。
現在、「ぼく」は中学生。
当時の両親が「夫婦喧嘩をした後で、お互いが死んだことにして生活していた。子供にもそう言い聞かせてつき合わせていた」のだということを、今では理解しています。けれど今でも父の姿は見えないままで、父に触れられても何も感じません。一種の自己暗示のようなものでしょうか。現実にもあり得そうなのが面白い点です。
このオチは強烈で、印象に残りました。夫婦喧嘩に巻き込まれた少年の悲劇。ですがまあ、本人が満足そうなので一応はハッピーエンドなのでしょう。歪な形とはいえ、これからも家族三人で暮らしていけるようですし。
そもそもこの両親、お互いを無視するだけでは飽き足らず、相手を死んだものとして扱うというあたりなかなかに陰湿です。そして相当な演技派。いくら主人公が幼かったとはいえ、よくもまあ、ぼろを出すことなく彼を騙し続けることができたものです。お互いが見えてないように振舞っている場面は、とても演技とは思えないほど真に迫っています。なんでしょう、非日常を演じるのが楽しくなってきて、つい演技に熱が入っちゃったんでしょうか。
『陽だまりの詩』
これは心温まるお話でした。
主人公は精巧な機械でできた女性。ロボットやアンドロイドという言葉は使われませんが、それに類する存在です。
舞台は近未来か、遠い未来か、それともパラレルワールドなのか、はっきりしません。この世界の人類は病原体によって死に絶えています。主人公は、おそらく人類最後の一人であろう、「彼」の死を看取り、埋葬することを目的に、「彼」自身の手で作られました。
これは彼が死ぬまでの、二人で過ごす時間を描いた物語です。
感情を持たない存在が人間らしい感情を手に入れる、という展開は、ありきたりではありますがやはり良いものです。
また、主人公を取り巻く環境が非常にのどかで、素敵です。丘に広がる緑の草原、植物に覆われた家、麓に見える廃墟。木々を揺らす風の音、庭の芝生の上をゆったりと舞う蝶。人間のいない世界はどこまでも穏やかで、時間がゆっくりと流れているようです。
彼と過ごす時間も、同じように静かでゆったりとしたものです。コーヒーを淹れ、畑の野菜でサラダを作り、レコードをかけては二人で向かい合ってチェスをしたり。良いですね。私もこんな風にのんびり暮らしてみたいものです。
美しいものに囲まれて、だんだんと情緒を発達させていく主人公。
窓の飾りが風に揺られて鳴るのを、「風の作り出した音楽」と表現できるようになったことで、自身の心の成長を自覚します。以前は規則性のないただの高い音、という認識しかできませんでした。ひと月でよくここまで成長したものです。
そして、「死」というものを理解してから、彼女はより一層人間味を増していきます。
彼を失うことへの恐れ、自分に心を与えたことに対する恨み。彼の死期が近づくにつれ、沈み込んでいく主人公の姿は見ていて胸が痛くなりました。
最後には、彼の正体が実は人間ではなく、彼女と同じ機械であったことが判明します。
心を得てから、一人きりで過ごした二百年は彼にとってどれほど長く感じられたのでしょう。死の直前ではなく、もっと早くに主人公を作っていれば、と、私としてはそう思わずにはいられません。
彼の死後、一人残される彼女の孤独もまた、どれほどのものか。
しかし、彼女は彼に感謝を告げるのです。
心などなければ良かったと思いつつ、それでも、心があるからこそ世界の輝きに触れることができたのだと、そう言います。
愛すべきものを知り、苦しみや悲しみさえ、生きていくうえでかけがえのないものなのだと理解した主人公。
悲しみの中ですらこう考えることのできる彼女は、やはり普通の人間とは少し違うようです。
おいていかないで欲しい、ひとりにしないで欲しいと縋りついても許される場面でしょう。自分に心を与えた彼のことをもっと恨んだとしても当然だと思います。けれど彼女はそうはせず、悲しみや恨みに押し潰されることなくまっすぐに自身の命と向き合い、今ある生に感謝すらしています。その物分かりの良さが、逆に切なく感じられました。
読み終えた今、もう彼女をただの機械だと思うことはできません。
主人公にしろ彼にしろ、根本的に、人間よりもずっと賢く純粋な存在なのだと思います。彼らの性質は一般的に「ロボット」という言葉から連想されるような無機質なものではなく、もっと無垢な、子供の純真さに近いものなのではないでしょうか。少なくとも、主人公が自然の中で情緒を育んでいく様子は「機械の学習」と呼ぶにはあまりにも伸びやかで、生の輝きに満ちていました。
そして、最後の彼女の俯瞰的なものの見方は、もはや人間というよりも仙人や悟りを得た者の考え方に近いものだったと思います。あの場面で彼女が一気に老成したような、そんな印象を受けました。
少し、主人公のその後の様子を想像してみます。
彼女自身は、自分が彼と同様孤独に耐え切れずにいつか機械の人間を作ってしまうかもしれない、と考えています。
けれど、そうでしょうか。私は、彼と彼女には大きな違いがあると思います。
彼女は、いつか、一つの生命として命を次に繋げるために、そしてその「子供」が自分と同じように世界に触れ、心を育てていくことを望んで、子を産む母のような気持ちで新たな命を創造するのではないでしょうか。自分の孤独を紛らわすためではなく。彼女の最終的な精神の様子を思えば、そういう可能性も十分にあり得ると思っています。
そして最期はその子供に見守られながら、生き切ったという満足感の中で機能を停止し、あの白い墓に埋葬される。あくまで私の想像ですが、そんな終わりであれば良いものです。
彼と同じならばあと二百年。その長い時間が彼女にとって有意義なものであることを願わずにはいられません。
穏やかで美しいお話でした。
『ZOO』
表題作です。ひたすら陰鬱な雰囲気で物語が進んでいきます。前の話からすごい落差です。
「ZOO」というのは主人公の「俺」が以前に恋人と観た映画のタイトルです。動物や野菜が腐っていく様子を、映画の主人公が早回しで撮影する、というカップルで観るのはちょっとどうかと思うような内容の映画。そして映画館を出た後に見つけた看板にあった文字も「ZOO」。こちらは動物園の看板ですね。
物語の開始時点でその恋人は死亡しており、主人公の家の郵便受けには毎日彼女の死体の写真が入れられています。つまり、何者かによる他殺。その写真をPCのソフトで連続再生すると、彼女の身体がだんだんと腐っていく様子がはっきりと分かります。彼女を殺した犯人が、わざわざ毎日死体の写真を撮って主人公に送りつけているのです。
「犯人を探し出す……」と呟く主人公。
ええ、ここまでは「主人公が殺人犯を突き止めて彼女の仇を討つのかな」と思っていました。ここまでは。
直後に、犯人は主人公自身であることが明らかになります。
殺害の理由は、彼女に振られたことが受け入れられなかったから。意外と単純な理由です。
感情にまかせて殺したものの、自責の念に耐え切れず、彼女を殺した犯人は別にいるのだと思い込むことで現実から逃避している主人公。
彼女は行方不明として扱われており既に警察による捜索も打ち切られているのですが、主人公は彼女の生前の写真を道行く人に見せ、この人の行方を知らないかと毎日聞き込みをしています。が、当然それも演技なわけです。そして、そんな「恋人を失った哀れな男」を警察や周囲の人間が疑うはずもありません。彼女の死を知っているのは主人公ただ一人のみです。
特徴的なのは、彼が他人の目を欺くためというより、自分の罪悪感から逃げるために演技しているということです。そのため、一人きりのときでも「犯人を捜す自分」を演じ続けます。周りに聞いている人間は誰もいないのにも関わらず、「そうか、犯人は俺の車を使って彼女を誘拐したんだな」などと一人で呟いてみせます。しかし、本当は自分が殺したことを知っているのです。
自首することができないのも、罰を受けるのが怖いからというわけではなく、「自分が彼女を殺した」という事実が明らかになってしまうのが怖いからです。愛する彼女への罪悪感。彼女の死を悼んでいるわけではないあたり、彼にとっては「自分が手にかけた」という事実しか重要ではないのでしょう。
死体の写真も、自分で撮って郵便受けに入れておいたものです。毎朝、この写真を手に取るところから、主人公の矛盾に満ちたむなしい一人芝居が始まります。
セリフを読みあげるようなわざとらしい演技に対し、モノローグでは終始冷静なのが不気味でした。主人公の疲弊しきった精神状況が窺えます。
主人公が「俺を振ったあの女が悪いんだ。殺されて当然だ」と開き直れる性格であれば、もしくは、犯した罪の大きさに怯えてすぐに自首するような小心者であったなら、事はもっと単純だったのですが、異常さもまともさも中途半端すぎたせいで、こんなに事態がややこしくなってしまったのでしょう。
毎日毎日一人芝居を続け、「自首しよう」「いや、できない」の繰り返し。ぐるぐる、ぐるぐる、本当に悪夢のようです。百日以上もあの一連の一人芝居を続けていたのだと思うとぞっとします。記憶の中の、つぶれる寸前の動物園。檻の中をぐるぐる歩き回る醜い猿と自分を重ねたり、もう正気を失う一歩手前まで来ていました。良かったです、最後に解放されて。
腐敗しきって乾燥し、虫すら寄り付かなくなるまで穴の中に放置された彼女は気の毒でしたね。
以上、5編でした。
ずいぶん長くなってしまいました。
どれもテイストが違い、読んでいて面白かったです。
続けて『ZOO 2』を読んでいきたいと思います。
それでは今日はこの辺で。