【初読】 フランシス・ホジソン・バーネット『小公女』畔柳和代訳 新潮文庫
小さい頃、子供向けの本で読んだ作品です。文庫版を発見したので購入してみました。
表紙のイラストが素敵ですね。どこかで見た画風だと思ったら、絵本『ビロードのうさぎ』(ブロンズ新社)と同じ方が描いていらっしゃるようです。あと『きかんぼのちいちゃいいもうと』のイラストも。どちらも好きな絵本です。翻訳作品にはこの方の独特な画風がぴったり合っているように思います。線の粗さと塗り色の鮮やかさが特徴的です。
『小公女』自体は小さい頃に何度も読んでいましたが、最後に読んでから時間も経っていますので細かい部分は忘れていました。
久しぶりに読み返してみて、またいろいろと新しい発見がありました。
以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。
子供の頃は終盤の「魔法」の場面が何よりも好きで、そこばかり繰り返して読んでいました。今読んでもやはり良い。部屋の中の素敵な家具調度や美味しそうな食べ物の描写がずらずらと書き連ねられているのは、読んでいてわくわくする部分です。
逆に、セーラがひどい扱いを受けている場面は読んでいて胸が痛みました。一番辛かったのはセーラが苦しみのあまり人形に八つ当たりしてしまうシーンです。肉体的な苦痛、ひもじさ、ずたずたになった自尊心、孤独。行き場のない怒りを大切なエミリーにぶつけてしまうセーラの姿はあまりに痛々しく、思わず駆け寄って抱きしめてあげたくなりました。後で「魔法」が起きるのだと知っていても、最後にはセーラが報われるのだと分かっていても、やはり辛いものは辛いですよね。
次に、キャラクターについて感じたことを。
小さい頃はセーラとベッキー以外は脇役だと思って読んでいました。もちろん、今でもセーラとベッキーが一番好きですが、その他の登場人物もそれぞれに魅力があります。
特にミス・ミンチンとラヴィニア。身近にいてほしくはありませんが、悪役キャラクターとしては実に魅力的です。底意地の悪い女性の悪役キャラって、私、結構好きなんです。『源氏物語』の弘徽殿の女御(光源氏パパの奥方のほう)とか。
明確にヒロインの敵として描かれているミス・ミンチンは、嫉妬深くて権力欲が強く、打算的で抜け目のない「嫌な女」のお手本のような人物です。一体どんな少女時代を過ごしたらこんな性格になってしまうのでしょう。彼女は本当に、温かい心を一欠片も持っていないのでしょうか。
ミス・ミンチンの少女時代は想像の余地があって興味深いと思います。実はアーメンガードのような劣等生のいじめられっ子だったり、逆に明るくて素直な普通の女の子だったりしたら面白いですね。
それから、日和見主義のミス・アメリアとジェシー。なかなかいい味出していると思います。
特にジェシーは意外と素直で良い子です。わりとセーラに好意的で、ラヴィニアの機嫌を損ねるようなことばかり言っていますけど、本当にラヴィニアの親友なんですよね?昔はラヴィニアとまとめて「セーラの敵の一人」という認識でしたが、今読み返してみるとラヴィニアとひそひそ話をしているくらいで、あまり意地が悪いという印象は受けませんでした。
ラヴィニアとジェシーはセーラとは不仲ですが、セーラのお話や人形には夢中になってしまうあたり、子供らしくて可愛いです。ラヴィニアにしても、やたらとセーラに突っかかってきますが、裏を返せばそれだけ彼女のことをよく見ているわけで、お互いもう少し大人になって落ち着いたら、意外と良い友人関係を築けるのではないでしょうか。そうであればいいと思います。
主人公のセーラは心優しい少女ですが、気性自体はかなり激しく、好き嫌いがはっきりしているため、同じように気の強いラヴィニアのような相手とはそりが合わないんですよね。
そういえば、私が初めて『小公女』を読んだとき、確か小学三年生くらいだったと思いますが、同じタイミングで同作品を読んでいた友人も、セーラのことを嫌っていました。いわく「偉そうで嫌い」とのこと。当時は理解できませんでしたが、今ならあのときの彼女の気持ちも少し分かるような気がします。セーラがあまりにも気高いため、驕り高ぶっているように見えたのでしょう。弱者への優しさも、上から目線の施しのように感じられたのかもしれません。
この作品ではセーラ・クルーという少女の「プリンセスのような気高さ」が特に強調されていますが、それ以上に、彼女の心の優しさについても丁寧に描かれています。
特に印象的なのは、彼女が落ちぶれた後、男の子から六ペンスを恵まれる場面です。自尊心から一度は断るものの、相手の善意を無下にはできない、と結局受け取るセーラ。屈辱に青ざめ、涙で目を濡らしながらも微笑んでお礼を言う彼女の姿は、あまりにも尊いものです。彼女は確かに気位が高いけれど、それ以上に優しい少女なのだということが分かる場面です。
そして彼女の「プリンセスらしさ」が最も強調されているのは、やはり第13章「民の一人」の部分でしょう。初めて読んだとき、子供心にもいたく感銘を受けたのを覚えています。
乞食の少女にパンを一つ分けてあげるくらいなら私にもできます。けれど、自分が空腹で倒れそうなときに、六つのパンのうち五つを他人に与えることができるか、と言われるとおそらくできないでしょう。それができてしまうのがセーラなんですよね。やはり彼女は生まれついてのプリンセスです。施し、と表現するのは気が引けますが、例え自身がどんなに貧しくみすぼらしくとも、セーラは常に人に「与える」側の、施しをする側の人間なのです。
裕福な生活から一転、落ちぶれて奴隷のような扱いを受け、最終的にはまた裕福になる。物語の劇的な展開にも関わらず、セーラの在り方は常に変わりません。逆境にあっても変わらず気高く、心優しく、想像力を失わない、それがどれだけ非常なことなのか、今なら分かります。どんな時も「プリンセスのふり」を続けるセーラの心の強さ、それこそが、どんな血筋や権力よりも尊い、プリンセスと呼ばれるのにふさわしい人物であることを証明しています。
私はプリンセスになるつもりはありませんが、セーラの自意識の強さ、自己に対しても他者に対しても誠実なその在り方は見習いたいと思っています。子供の頃も、今も、セーラ・クルーは私の憧れのヒロインの一人です。
初めて読んだ小学三年生の頃を思い出しつつ、懐かしい気持ちで読み返すことができました。
ハッピーエンドで読後感も良く、休日の読書にぴったりの作品でした。
では。