例えば身内の葬式で親戚一同集まったときに


例えは葬式でなくてもいいんだけど、親戚と特別親しいわけじゃないから、葬式でしか顔を合わせないわけで。家は1キロほどしか離れてなくても。

そもそも、特別親しくするも何も、長い間確執めいたものがあって、私としては、思春期頃にはむしろ悲しみを通り越して軽い殺意を抱くことは多々あったわけだから、時間が経ったとしても、今さら歩み寄りもないと思ってるけど。

自己弁護じゃないけど、大それた真似ができるはずもなく、その点じゃ道を踏み外したことはないのだから、そう思うくらいかまわない、ということにしてる。誰かを憎むくらい、よくある話でしょう。



親戚というのは、近いけど遠い。似てるけど違う。歪んでいる。次元が違うみたいに溝が埋まらない。

話が弾まないからというより、話を合わせても、あの、どうしようもない、疎外感っていうか寂寥感っていうか。胸が詰まって、切なくて、懐かしささえ感じる。他人の一家団欒を眺めても似た気分になるけど。



血縁があるんだから、私にも絶対的に似てる部分はあるんだろうけど、血縁がなくても、似てくる部分もあるんだけど、相対的に、自分は「どこか違う」んだっていうふわふわと覚束ない感じ。親戚の平均値から外れたみたいな。大きくずれているのなら開き直ることも出来ようが、それも出来ない違和感程度の。


子供の頃は、誰かに似ていなければならなかった。母方に似ていなければならなかった。そういう風に捉えた。繰り返される〇〇に似ているというありきたりなトークに、いつも憂鬱にさせられた。私は特に何も秀でたところのない子供だったけど、「血」ということにされた。こじつけだ。

そうまでして絆を求めるのが、呪いのようにしか思えなかった。呪われている。私個人の意思や努力が及ばない聖域だ。


そこに、年月が加わって、一族の一体感に、老いたことによる、弱さとか甘えとか、諦めとか、労りのようなものが、年々澱みたいに積もって、ゆっくりと、重く揺らいで私の足元を撫でる。

何も知らないだろう子供が、無邪気にはしゃいでいる。ただ通り過ぎる。私にはどうしていいかわからない。


このひとたちも、私も、皆死ぬんだな、こんな風に。とにかく必ず。恐怖と安堵が混ざった妙な気持ちにさせられる。相反するものが同時に成立する。気持ち悪い。気持ち悪くて、でも、優しさに似ている。そう思う。



自分の中の、優しさではないだろうけれど優しさによく似た、弱い、柔らかい部分を刺激されて、無力感に苛まれるのだ。いつもだ