こんにちは。
とうとう人物列伝も20回目を迎えました。
今日はこの人を紹介します。

龐統       字は子元


三国志演義では臥竜(諸葛亮)と鳳雛(龐統)のいずれかを手に入れれば天下を治められるとまで言われ強キャラ感を醸し出しながら登場しますがそんな事実はありません。

正史によると龐統はとにかくブサイクでコミュ障だったと記されています。
ブサイク過ぎて世間から全く能力を評価してもらえなかったようです。

正式な歴史書にブサメンであると明言されている程なので手の施しようのないレベルのキモメンだったようです。

しかしある時名士として有名だった司馬徽の目にとまり高い評価を得たため一躍有名になります。

その後、荊州を領していた劉備に仕官し耒陽県の県令として取り立てられます。

県令となった龐統でしたが仕事をサボりまくったためキレた劉備に罷免されました。

この時、当時劉備と同盟関係にあった孫権軍の魯粛が劉備に手紙を送り「龐統は大役を与えてこそ才能を発揮します」と述べて龐統を弁護したため、劉備は改めて龐統を諸葛亮と同格の軍師中郎将として登用しました。

この頃、益州を治めていた劉璋は漢中に勢力を張っていた張魯と戦闘状態にありました。
劉璋は同族という事もあり荊州を統治していた劉備に援軍を要請します。

龐統はこの時、劉璋を助けるふりをしてそのまま益州に攻め込むべきと進言します。
劉備はためらいますが龐統の説得により益州侵攻を決心しました。

↑龐統

劉備が益州に出兵すると、劉備の企みを知らない劉璋は歓迎の宴をひらくなど手厚くもてなします。宴会の途中龐統は「この場で劉璋をぶっころせ」と劉備に進言しますが劉備は却下しました。

その後、しばらく劉備は漢中の張魯と対峙するふりをしながら益州内に駐屯していましたが212年、とうとう行動に移します。

劉備は益州攻めにあたり龐統に作戦計画を問いました。龐統は上計、中計、下計の3つの作戦を劉備に示し、選ぶ様に言います。

上計(もっとも良い作戦)
昼夜兼行の電撃戦で一気に州都の成都を攻略する。

中計(普通の作戦)
関所を守備する劉璋の将を騙し討ちして兵を奪い、成都を目指す。

下計(う◯こみたいな作戦)
益州と荊州の州境の白帝城まで一旦兵を引く

劉備は中計を選びました。
劉備は龐統の作戦どおり、白水関を守備していた楊懐と高沛を宴会に招きます。この2人は劉璋配下の名将として結構有名であり劉備も警戒していました。

宴会の途中劉備は楊懐が身に着けていた短刀を見せて欲しいと頼みます。楊懐は快く短刀を劉備に渡しました。劉備は短刀を渡されると突然顔色を変えて「楊懐はこの短刀で私を殺すつもりだったに違いない!」と叫び、それを合図に劉備軍の兵が乱入し楊懐と高沛を捕らえました。

劉備はこの2人を処刑し、そのまま白水関を占領します。楊懐は処刑の直前まで劉備の悪口を言いまくったそうです。

演義では楊懐と高沛が劉備を暗殺しようとして返り討ちに遭うという、劉備の正当防衛のように描かれていますが実際は完全に劉備による騙し討ちです。

この事件によって劉備軍と劉璋軍は開戦となり劉備の入蜀がはじまりました。

龐統は参謀総長として作戦の立案を行い劉備軍は連戦連勝します。

劉備は連勝に気を良くして酒宴を開きました。
この時、浮かれる劉備に対して「他人の国を奪って喜ぶなど仁者の軍とは言えませんな」と龐統がイヤミを言いました。
劉備は「もともと益州を攻めろと言ったのはお前だろうが(しかもブサイク)」と言ってブチ切れ、龐統に退席を命じます。
しばらくすると劉備は怒りが収まったので龐統に席に戻るよう命じました。
龐統は何事も無かった様に着座します。
劉備が「さっきはどちらが間違えていたのか」と龐統に問うと、龐統は「君臣共に間違えておりました」と答えました。劉備は大笑いし、その場はおさまったそうです。

↑オラつく龐統

その後も劉備軍は進撃を続け、成都の手前にある雒城を包囲します。
雒城は劉璋の息子の劉循と将軍の張任が守っていました。

この包囲戦は激戦となり龐統は戦闘中、流れ矢にあたり戦死しました。36歳だったようです。
劉備は龐統の死に深く悲しんだといわれています。

結構長文になってしまいました。
最後まで読んでくれた人ありがとうございます。


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