こんにちは。
雪が降っていてイラつきますが今日も更新しようと思います。
今日はこの人!

王允       字は子師


19歳の時に郡の役人として登用されます。
王允のいた太原郡では当時、趙津というチンピラがブイブイいわせ暴れていました。

王允はこれを風紀を乱す者として捕らえぶっ殺します。
これに趙津の兄弟が怒り朝廷の宦官に賄賂を贈り王允への復讐を行おうとしました。

賄賂を受け取った宦官が当時の後漢皇帝、桓帝に事実を捻じ曲げて報告したため桓帝は王允の上司を投獄し処刑してしまいます。

王允は責任を感じ上司の棺を上司の故郷まで持って帰り3年間喪に服しました。

その後、順当に出世を続け184年の黄巾の乱の時は豫州刺史を務めていました。
王允は軍を率い荀爽、孔融らを参謀として豫州に侵入した黄巾軍を撃破します。

乱の鎮圧後、王允は十常侍の張譲が黄巾軍と内通していた事を当時の皇帝だった霊帝にチクりますが張譲が泣きながら謝ったため霊帝が許してしまいました。

逆に張譲の復讐を受けることになり投獄され、処刑される事になります。
しかし多数の助命嘆願が寄せられたため命を助けられ、尚書令として復職しました。

↑王允

190年、宦官が一掃され董卓が政権を握ると董卓から司徒に任じられます。
司徒というのは大尉、司空とならび三公と称される最高位の大臣の事です。

現代で例えると

司空→国家の土木工事を担当する。国土交通大臣
大尉(大司馬とも)→国軍の最高司令官。国防長官
司徒→農業、経済、教育を担当。総理大臣

こんな感じでしょう。基本的に三公は最上位の官職ですが時と場合によってその上に三公の権限を全て統合した丞相が置かれる事もありました。

こうして董卓政権下で司徒としてオラついていた王允でしたが董卓が暴政を行うにつれて董卓の暗殺を画策するようになります。

結果的に董卓の暗殺を引き受けたのは王允と同郷の呂布でした。呂布は董卓の寵臣でしたがある時董卓の機嫌を損ねたことがありそれ以来微妙な関係だったからです。

演義では貂蝉とかが出てきて色々盛り上がりますが(連環の計)そんな事実はありません。

192年4月董卓は参内した際に呂布に殺されました。

↑オラつく王允

董卓を殺害し実権を握った王允は即座に董卓の残党狩りを行い董卓の一族を皆殺しにします。
さらに董卓派であった官僚達も悉く処刑しました。

文人として名高かった蔡邕もこの時処刑されています。蔡邕は董卓に厚遇された事を恩に感じていたため董卓の死に嘆き悲しみました。

これに王允はイラついたため投獄され処刑されたわけです。

董卓配下だった李傕と郭汜は王允に降伏を申し出ましたが既にイキってしまっていた王允はこれを許しませんでした。
進退窮まった李傕らはヤケクソになり長安に特攻に近い攻撃をしかけます。王允はドヤ顔で迎え撃ちますがボコボコにされ長安は陥落しました。

敗れた呂布が「共に参りましょう」と王允を誘いましたが王允は「国家の安定が私の願いでした。幼い陛下を見捨てて自分一人助かるなどできません。どうか関東の諸侯に天下の事をお忘れ無きようお伝え下さい」と言い長安に留まりました。

呂布は逃走し自分一人助かります。

やがて李傕らが宮中に乱入すると献帝は李傕を詰問しますが「董卓公の復讐が終わり次第罪を受けます」と述べ宮中で暴れまわり暗殺に加担した有力者らを皆殺しにしました。

王允も捕らえられ一族皆殺しとなりました。
57歳だったようです。



范曄(宋の政治家)「功は全うすれども元は醜く、残党を残す事になった」
郭泰(後漢の儒者)「一日千里を走り王佐の才である」