こんにちは、お久しぶりです。
久しぶりに更新しようと思います。
今日はこの人!

王平     字は子均

王平は漢中付近に生活していた異民族、板循蛮の生まれです。つまり当時の中国的には外国人と言う事になりますね。

曹操が漢中の張魯征伐を行なった際に魏に多数の異民族が服従しましたが王平もこの時、曹操に降っています。

やがて曹操と劉備の直接対決となった漢中攻防戦の際に劉備に投降し、以後蜀漢に仕えるようになり将軍に列されています。

劉備の死後は諸葛亮の北伐に従軍し、多数の功績を挙げました。
王平を一躍有名にしたのが228年の街亭の戦いです。

北伐を開始した諸葛亮に対し魏の皇帝曹叡は自ら長安まで親征し、魏最強クラスの名将、張郃を街亭へと派遣します。
街亭は北伐を行う上での橋頭堡としてかなり重要な地であったため蜀の幕僚達は魏延か呉懿を総司令官として軍を街亭に送るよう進言しました。

しかし諸葛亮はお気に入りの馬謖を抜擢し、軍を率いさせ街亭へ派遣します。
王平は副将として馬謖に随行しました。

諸葛亮は出陣前に五叉路に布陣するように馬謖に命じましたが街亭に到着した馬謖は南山の山頂に布陣すると言い出します。

↑オラつく馬謖とイラつく王平

王平は「あの山は孤山です、四方に山脈がありません。確実に包囲されます。」と凄い正論で馬謖に反対しますが馬謖は「高所に陣取るのは兵法の基本だバカが」と王平を相手にしません。

それでも王平は「あの山は水場が遠すぎます。包囲され水脈を絶たれたら間違いなく敗北するでしょう」と説得しますが結局馬謖は南山の山頂に布陣しました。

結果的に街亭に攻め寄せた張郃は孤立した山にドヤ顔で布陣する蜀軍にドン引きしつつも速攻で水源を断ち包囲した為蜀軍は壊滅しました。

この時、張郃は敗走する蜀軍に対し掃討戦を開始しますが王平が街道に布陣し反撃したため撤退、蜀軍は殲滅を免れました。

戦後、ブチ切れた諸葛亮によって総司令官の馬謖をはじめ張休、李盛などの指揮官が斬首されましたが王平だけは頑張ったので昇進しています。

諸葛亮の死後、魏延と楊儀が内戦を始めると王平は楊儀に従い、魏延討伐の先鋒大将として魏延を破りました。

237年、漢中総督であり蜀漢の超大物であった呉懿が死去すると後任として王平が漢中を統括し、大将軍にまで上り詰めました。

↑大将軍となりオラつく王平

244年、魏の曹爽が漢中を攻撃します。この侵攻は総司令官の曹爽をはじめ、夏侯玄、郭淮、司馬昭、楊偉など魏の大物らが従軍しており兵力も騎歩10万余を号する大軍でした。

メンツや兵力的にもかなり本格的な侵攻作戦であった事が分かりますね。

漢中総督の王平は直ちに成都に救援を要請します。援軍の到着まで漢中を死守する必要がありましたが漢中に駐屯する蜀軍は3万足らずでした。

参謀達は漢中城を一旦放棄して漢城、楽城へ後退し、ここを固守して援軍の到着を待つべきだと主張します。しかし王平は敢えて軍を前進させ、魏軍の進軍経路の駱谷道を封鎖しその道中にある興勢山に布陣して魏軍と対峙しました。

これは、劉備の時代に漢中総督を務めていた魏延が立案した漢中防衛の作戦計画でした。

結果的に魏軍は王平の堅い守りに阻まれ身動きが取れなくなります。やがて成都から当時の蜀漢の軍最高司令官であった費禕を総大将とする援軍が到着します。

魏蜀双方の大軍は膠着状態となりやがて魏軍は撤退しました。「興勢の役」と呼ばれる三国時代の大規模な戦闘のひとつです。

興勢の役の4年後の248年、病のため世を去りました。


個人的には屈指の名将だと思います。異民族だったのでビジュアル的には孟獲みたいな顔面だったのかもしれませんね。


陳寿(蜀の臣)「忠勇にして厳整な人物だった」
常璩(東晋の歴史家)「張翼、廖化に並ぶ名将である」