こんにちは!
今日も紹介していきます。
最近誰を紹介しようか悩む事が多くなりました。
悩んだ末、この人を紹介します。

袁尚         字は顕甫


三国時代、一時期最大の勢力を誇っていた袁紹の三男として誕生します。
生まれつきイケメンで武勇に優れていたため父袁紹から特別可愛がられました。
河北四州を支配していた袁紹は広がり過ぎた領土を円滑に統治する為、自身の一族を各州に派遣しそれぞれに統治を委任しました。

長男の袁譚は青州
次男の袁煕は幽州
三男の袁尚は冀州
甥の高幹は并州と言う様にそれぞれ任せます。

202年、袁紹が死去すると後継者問題が発生しました。生前袁紹が後継者を明言していなかった為です。
袁紹の幕僚だった郭図、辛評らは長男の袁譚を支持しましたが審配、逢紀らは袁紹生前の寵愛を理由に袁尚を支持し強硬に擁立します。

これを受けて袁尚は正式に後継を宣言、キレた袁譚もまた後継を宣言します。
袁氏の中に君主が二人存在するという異常事態となり、この混乱に乗じて曹操が侵攻を開始しました。
↑袁尚    若干イキっているようにも見える

曹操軍が青州に侵入してきた為、袁譚は袁尚に救援を要請します。しかし袁尚はこれを拒否し、キレた袁譚もまた袁尚派の逢紀を殺害して報復しました。

結局曹操軍と袁譚軍の戦闘は膠着状態となり曹操は一旦、青州から撤退しました。
この時はまだ官渡の戦いで敗れたとはいえ袁氏は曹操を上回る戦力を保持していたようです。

曹操が撤退すると怒りが頂点に達していた袁譚は袁尚への攻撃を開始します。河北袁氏内乱の始まりですね。

袁尚は攻撃してきた袁譚を返り討ちにし、平原に追い詰めます。ボコられた袁譚は曹操に降伏し救援を要請しました。
要請に応じた曹操が河北に侵入すると袁尚は一旦本拠地へ退きました。

204年、再び袁尚は袁譚を攻撃します。しかし曹操が袁尚の留守を狙い本拠の鄴を攻撃し包囲してしまいました。
袁尚は引き返し曹操と決戦に臨みますが大敗北を喫します。袁尚は曹操に降伏を申し込みますが「死ぬまで戦え」と拒否されました。

袁尚は中山へ落ち延びますが追撃してきた袁譚に再び撃破され兄の袁煕が治める幽州へと逃亡します。
袁煕の率いる幽州軍団は袁氏の内乱にも介入せず曹操との関係も悪くは無く完全に中立を保っていたので無傷の状態でした。

幽州の豪族たちは「袁尚を受け入れては曹操の侵攻を受ける」と袁煕に受け入れ拒否を進言しますが結局袁煕は袁尚を保護し、曹操との対決姿勢を明らかにします。

袁尚、袁煕は北方異民族の烏丸の助けも借り、白狼山で曹操を迎撃しますがボコボコにされ、遼東の公孫康を頼って落ち延びました。

しかし曹操と対立する事を恐れた公孫康により袁尚、袁煕は捕らえられ処刑され、首は曹操の元に届けられました。

処刑直前に袁尚が寒がって筵を求めると袁煕は「首級が万里の旅に出るというのに何故今更筵がいるのか」とたしなめたそうです。
↑袁尚図   首級が万里の旅に出た瞬間が描かれている

袁紹死後も充分に覇を唱える勢力があったにもかかわらず内乱の為曹操に滅ぼされる事になりました。とても惜しいと思います。


陳寿(蜀の臣)「基本的に兄の譚に劣っていた」
兀突骨(烏戈国国王)「寒いぞ筵をくれ」