こんにちは
皆さん三国志演義と正史どちらがお好きですか?
おそらく演義の方が好きという人の方が多いと思います。実際自分も演義の方が好きです。
陳寿が真顔で書いた歴史書と羅貫中がニヤけながら書いた小説とでは後者の方が面白いのは当然でしょう。

基本的に演義は話が盛られているので化け物みたいなのがゴロゴロいます。やっぱり強い武将を見ていた方が心が踊りますね!
しかしごく稀な例として演義より正史の方が化け物じみている人もいます。今日はそんな人を紹介したいと思います。

張遼      字は文遠

初め并州刺史の丁原に仕えていました。後に丁原が都洛陽に上ると張遼も兵を率いて同行します。
やがて大将軍何進に河北での募兵を命じられ張遼は都を離れ河北へ向かいます。

張遼が募兵の任務を終え1000の兵を集め都に戻ってくると大将軍何進は十常侍によって殺されており、それどころか主君丁原も呂布に殺され董卓が実権を握った後でした。
張遼は仕方なくそのまま董卓に仕えます。

192年董卓が呂布に殺されると張遼はそのまま呂布に仕えます。曹操と呂布の戦いが始まると曹操に味方していた劉備を攻撃し撃破、さらに救援に来た夏侯惇も破っています。

呂布滅亡後は曹操に仕え官渡の戦いの前哨戦、白馬の戦いで先鋒を務め顔良を撃破しました。

その後反乱の鎮圧や袁氏討伐などで数多くの戦功を挙げ207年白狼山の戦いで袁氏を支援していた烏丸の王蹋頓を破り蹋頓を討ち取ります。


その後張遼は孫呉との国境、合肥に赴任します。
215年3月、曹操が漢中の張魯征伐の為出陣すると同年8月、突如孫権がその隙をついて侵攻を開始します。これが張遼の名を一躍知らしめる事になった合肥の戦いです。

孫権軍10万に対し張遼の率いる兵は7千でした。
張遼は合肥を囲んだ孫権軍に対し800人の決死隊を率いて出撃します。

張遼は自ら先頭に立ち孫権の本営を目指して真一文字に突入しひとりで敵兵を数十人斬り2人の将校を討ち取ると孫権の間近まで迫ります。ビビった孫権は自ら戟を手に取り逃亡、しかし張遼らが少数である事に気付くと急にオラつき大軍を持って張遼を包囲します。

ですが張遼は何重にも重ねられた包囲を破り脱出、更に包囲の中に自軍の兵がまだ取り残されている事に気付くと再び包囲の中に突入し部下を救出、また包囲を破って脱出します。
結局張遼の攻撃は半日以上続き孫権軍は士気が低下、10日程合肥を包囲した後撤退を開始します。

これを見た張遼は追撃を開始し再び孫権軍に凄まじい勢いで突入、またしても孫権の間近に迫ります。ビビった孫権は逍遥津(川です)を馬で飛び越え何とか事なきを得るという有様でした。

結局合肥の戦いは孫権軍の大敗北に終わり将軍の陳武が戦死しています。

曹操死後その後を継いだ曹丕にも重用されます。
221年、曹丕の命で張遼は洛陽に入朝
曹丕は張遼の為に邸宅を建て、張遼の母には御殿を建てました。さらに張遼と共に孫権軍に突入した兵士らは近衛兵に取立てられます。

しかし221年頃から張遼は病気を患うようになります。この時曹丕は宮廷医を派遣するなど張遼に特別の気配りをみせています。
更に張遼の見舞いにかつての決死隊の近衛兵らが殺到した為張遼の邸宅には前の道まで行列ができ大混乱に陥りました。

その後張遼は再び元の駐屯地に帰る事を希望したので合肥に戻ります。
222年、再び孫権が侵攻してきます。この時張遼は病の為瀕死状態でしたが出陣、敵の指揮官が張遼だと知った孫権は「張遼が病んでいるとしても危機感を持ってあたらなければならない」と全軍に通達しています。(その後病身の張遼にボコられます)

同年、江都にて死去します。

↑張遼威を逍遥津に震う

合肥での大敗北は孫権だけでなく江東の民衆達にとっても衝撃的だったようで長く江東の地で張遼は恐怖の象徴とされました。

江東の母親は子供が泣き止まない時「遼来、遼来」(読=リャオライ、リャオライ、意=泣き止まねぇと張遼が来てボコられるぞ)と言ってあやしたそうです。




陳寿(蜀の臣)「曹操在世時、もっとも功績のあった将軍のひとりである」
傅玄(晋の臣)「曹仁の勇に次ぐのが張遼である」
江東の民「遼来!遼来!」
兀突骨(烏戈国国王)「孫権の不甲斐無き事この上なし」