こんにちは、今日は人物列伝4人目を紹介していきたいと思います!
今回はマイナーだけど大物だった人を紹介します。皆さん黄巾の乱をご存知ですか?古来より中国は非常に農民反乱の多い国です。しかもそれはその時の王朝を崩壊させる所まで至る場合が非常に多いですね!

陳勝呉広の乱→秦に致命傷
赤眉の乱→新滅亡
黄巣の乱→唐滅亡
李自成の乱→明滅亡
太平天国の乱→清に致命傷

など言い出すとキリがありません
黄巾の乱も傾きつつあった後漢に致命的な一撃を加えた大反乱でした。
というわけで今回はこの人!

波才    字は不明です

黄巾の乱は中国全土を巻き込んだ大反乱でしたが特に反乱の規模が大きかったのが冀州、豫州、荊州です。それぞれ冀州黄巾軍、潁川黄巾軍、南陽黄巾軍と呼ばれます。

冀州黄巾軍の指導者は張角、張梁、張宝、一般的に黄巾の乱の首謀者と言われる人達です。
荊州、南陽黄巾軍の指導者は張曼成、これは張角死後もかなりしぶとく抵抗を続けます。
豫州、潁川黄巾軍の指導者は波才、今回の主人公です。

↑やられているのは波才ではありません
   鄧茂とかいうザコキャラです

黄巾の乱は指導者である張角、張曼成、波才、馬元義らの主導でおこされました。

当初の計画ではまず馬元義が首都洛陽に入り、政府中枢の高官らを買収し反乱を起こさせます。
そののち、全国の黄巾党信者らに号令をかけ一斉に挙兵するというものでした。決行は3月5日に予定されていました。
突発的な挙兵では無く緻密に計画されていたようです。

しかし馬元義が都に潜伏中やらかし、捕まったせいで計画が露見!時の皇帝、霊帝は張角捕縛の勅命を発します。

テンパった張角は予定を早め、184年2月に慌てて挙兵、3月には予定通り張曼成が挙兵、何故か遅れて4月に波才も挙兵します。(挙兵は3月5日のはずだぞ)
本来なら馬元義も揚州で挙兵する手はずでしたが都で車裂きに処されたため実現しませんでした。
この辺のゴタゴタを見る限りやはり農民の寄せ集め感はありますね。

↑オラつく波才

184年4月、皇甫嵩、朱儁らを指揮官とする追討軍が波才の元に送られます。まさに後漢オールスターです!
波才は平地にて官軍と決戦に及びこれを撃破、敗走する朱儁らを追撃、皇甫嵩、朱儁は城塞に籠城しますが波才によって完全に包囲されます。
しかし5月、皇甫嵩が風向きを利用した火計で反撃、混乱する波才軍の側面に援軍として現れた曹操軍が突入し潁川黄巾軍は壊滅!
逆に朱儁の追撃を受け波才は戦死しました。


いつもは各方面からのコメントを記載していますが正直だれも波才に言及していませんでしたので私の所見を述べさせてもらいます。

波才の潁川黄巾軍は挙兵から軍団壊滅まで僅か2カ月です
もっとも遅く挙兵し、確認できた中ではもっとも早く消滅した軍団です。
はっきり言って情け無い事この上ありません。
冀州黄巾軍などは壊滅まで9カ月持ち堪えていますし、長いところでは10年近く戦い続けた集団もあります。

しかし総兵力36万と言われる黄巾軍においてひとつの軍集団を任されたという事はそれなりの名士であったか人望のあった人物なのかもしれません

兀突骨(烏戈国国王)「波才は広く天下にその名を知らしめた真の烈士である」