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蓄音機からデジタルオーディオ

ソニーが販売を開始したネットウォークマン がiPODを上回り、好調な出足となった。そんな記事を見た後にMDプレーヤーを見ると物悲しさを感じる。MDは本当に薄命だったと思えるからだ。高校時代の通学に使用していたものだが、それでも5年あまりしか経っていない。MDプレーヤーのCMに出ていた浜崎あゆみも、今ではSDカードを使って聞くプレーヤー のCMをしている。つまりCMに起用される人材が変わる前に、媒体が変わってしまった。

音質などの問題を気にしない私であるから、その点については省くが、早すぎるとも感じる交代劇だ。よくビデオのレンタルショップなどで、今では需要が少なくなってきたであろうカセットテープを販売している店舗もあるが、もうじき格安のMDも販売されることになるのだろう。ただSDカードなら販売できるがHD一体型であると、そうした録音媒体が必要ないから、副収入は減っていくかもしれない。

音楽は人と密接な関係にあるが、エジソンによって1877年によって蓄音機が発明されたが、それ以降は実に穏やかに変化はなかったわけだが、CDウォークマン以降変化は非常に早い。それだけ音楽に対する容貌が高いという証拠であるのだが、人とはやはり貪欲である。

昨日のポケベルに引き続き、技術発展の速さを扱っているけれど、身近なものを調べれば様々なものが変化しているように思える。フロッピーディスクがCD-R、そしてメモリにかわり、ビデオはHDへと変わり、と様々だ。ずっと同じであるものは何であろう?と探すほうが難しい状況だ。こうなってくると次は一体何が変わってしまうのか、ものを買うタイミングがわかりづらい世の中になってきたのは確かである

ポケベル終焉、技術進化の速さ

『NTTドコモは25日、ポケットベルのサービスを07年3月末で終了すると発表した。ポケベルは1968年7月に旧電電公社がサービスを開始。90年代半ばに女子高生を中心にブームになり、数字を組み合わせた暗号や短文のメッセージをやり取りする「ベル友」が社会現象にもなった。契約者数は96年6月に約649万件に達したが、その後は携帯電話の普及に押されて減り続け、今月24日現在で約29万件まで落ち込んだ。』

毎日新聞 の記事から抜粋ですが、ポケベルという一時代を作った文化も、終わりが近づいているようです。Wikipedia を調べてみると、やはりありました『ポケベルが鳴らなくて』という、時代を象徴するかのようなこのタイトルのドラマ。内容はリンク先を参照してください。また、驚いたのがこの作品で高橋克典 はデビューだったのだなぁと意外さを感じます。私はそれより後の世代だから、ポケベルを使うってことはありませんでしたが、昔の漫画などを読むと結構ポケベルは出ています。

時代は変わって携帯電話の普及率はこのブログでもお伝えしたとおり相当なものになっていますし、『着信あり』はそんな世の中を象徴する映画作品であるでしょう。ポケベルが流行していた当時、ドラマの放映日時を参照すると93年ということですが、僅か10年ほどで時代を象徴する技術は変わってきたわけです。10年前というと、まだまだパソコンすら家庭には普及されていないような時代。まさに今の時代は当時から思えば夢物語といえるでしょうか。

こう考えると2015年というのはどんな時代になっているのでしょう。電子書籍や音楽のネット配信などが、完全に一般化しているのでしょうか?またロボット技術も成長の真っ只中ですし、より人間らしいロボットなども登場しているのでしょうか?戦後復興僅か半世紀あまりで、ここまで時代は変化するのだなと感心しております。

ただ公衆電話などは非常時の為に残されるそうですが、残していくべき文化も当然あるのでしょう。また10年余りで気象の異常かも拍車がかかっていますし、やはりこのまま技術>環境のような驕りを持っていると、恐ろしい結末が待っているような気もします。結局、人間っていうのは技術に翻弄され続けるのかもしれません。技術が行くところまで言ってしまったとき、人間は一体何に翻弄されるのでしょう?

今週を振り返る

17歳の事件に始まり、妙な脱北者の帰還に終わった今週なわけですが、こうして振り返ると、あまり良い事件ってのは聞かない気がします。スポーツ界では本日ヤクルトスワローズの古田選手が2000本安打を達成し、楽天がここにきて、さんざん週刊誌などで騒がれたシーズン100敗という兆しが出てきた気がします。また、巨人は相変わらずの中継ぎがぼろぼろということもあって、最下位争いを演じる始末といった感じでしょうか。

地震やタイでの象の暴走など自然や動物を蔑ろにしてきた跳ねっかえりが来ているのでしょうか。現在の生活で必要不可欠な石油も、インドや中国の台頭による車の増加により、枯渇するのではないかとも言われています。便利な反面こういったリスクは付き物、表裏一体とこのブログでは散々再四言っていますが、事実その通りではないでしょうか。

Mixiを初めネットでの交流がどんどん増えていく中、自殺防止などにも政府は取り掛かるようですが、言うは易し行なうはむずかし、の通りどうにも机上の空論のような気がしてなりません。ネットでのつなぎっ放しがシェアを増して行き、ブログやHPを持つ人が増える中での資源エネルギー庁でのHP管理費が12億円、というような事件もあり、政府は相変わらず国民レベルを勘違いしているような気がしてならない。

さてこうして記述していると明るい、幸せ、嬉しい話題というのはなかなかないものだなと思います。毎日明るい話題をと思っても取り上げる感心する話題はIT関連が顕著に多いこのブログですから、目先の視点をかえるのも面白いかもしれません。こういった感じで今週を振り返ってみました。

電子書籍、mp3ファイルなど

PC Watchに載せられていた意見であったが、CDなどの媒体は結局は必要ではないかと思う。ケース、ジャケット、CDと三位一体になってこそ音楽という感覚が私にはある。確かにmp3ファイルなどは所持しているけれど、本当に欲しい曲というのはCDで購入している。

そういった形式の変化の時代の中に電子書籍があるわけだが、こちらも同じように本は本という形であって欲しいと思う。携帯で読書などはもちろん歓迎なのだけれど、いざ保存方法としては本という形のほうが好きだ。場所を占めるものであるが、それが一種の満足感に繋がると思う。CDもまた同じで、サイズ容量で示されてもなにか空虚さを感じる。

20世紀が物質の世紀と呼ばれることもあるが、このままでいくと21世紀はそれこそ数値化の世紀となりかねない気がするのです。何曲聴いた?何冊読んだ?がメガなどの表現で話されるようになったとしたら、進化であると同時に何かが欠如している気になってしまう。またどんなものにも「無くなる」ということはあり続ける。CD-Rなども耐久年数などもあるし、いつ消えてしまうかもわからない。もちろんHDもいつかクラッシュするかもしれない。

結局、本当に必要なのは形式でなくて確固たる存在方法が優先されるべきだと思うのだ。本にしろCDにしろどんな媒体にせよ、完全な保存方法はないわけで。ただこれは難しいことだろう。絵画などの評論家に言わせればどんなに精巧なコピーよりも、美術館に飾られている本物を推奨するわけだし。まだまだ形式のあり方などは通過点に過ぎないのだろう。

病は気から、幸せは最良の薬

『研究チームは、ロンドン在住の200人を超える中高年を対象に、日常生活における感情と健康状態を調査した。その結果、毎日とても幸せだと答えた人は、身体的にも健康であることが立証された。幸福を感じると、神経内分泌系の作用、炎症、心臓血管の活動が減少することがわかったのだ。』

Yahoo!ニュース入りしたこの記事である。逆もまた真なりといったところで、病は気からという言葉があるが、まさに幸せは薬であることを示す格言である。記事中では専門用語も多いので割愛していくが、最後の結論が一番わかりやすい。『その結果、健康に関する生物学的なさまざまな要因は、それぞれ幸福感と関係していることがわかった。つまり、人は健康だから幸せだというだけではなく、幸せだから健康なのだ。』とある。

幸せと感じられる場所は過ごし方は十人十色、このような発言があると新興宗教に利用されそうで怖さもある。熱心な信者も信仰が幸せであれば健康であるとなるわけだから。ただこうしたある種の感覚的なものを実際に調査し証明してしまえる現在の調査能力には感服する。

『最も不幸な被験者と最も幸せな被験者とでは、コルチゾール濃度に32%の差が出た。また、幸せな被験者は、フィブリノゲン血漿――高濃度の場合、将来的に冠状動脈疾患(虚血性心疾患)を発症する兆候とされることが多いタンパク質――レベルで低いストレス反応度を示した。さらに、幸せな被験者の心拍数は1日中低かった――これは心血管系が健康だというしるしだ。』

と、あるように説得力のある証明が出てくるわけだ。以前、子供の笑顔はチョコレートバー千個分の幸せという記事についても書いたが、我が子を育てることがある種の栄養剤になるというのだから、素晴らしいことであろう。笑うことが幸せなら、コメディアンは笑顔だけでなく健康すらも与えるのだから、光栄な仕事ではなかろうか。

結論としてより一層ネガティブな考えをするよりはポジティブな思考をしたほうが、精神面そして肉体面も健康的であるということだ。前向きであるべきであることを補足する研究である。とある人物の笑って歩こうぜ、という格言があるがまさにその通りであるのだろう。泣いた顔には肉体面までも悪化させる、笑顔で歩けば少なくとも健康にはいいのであろう。

コンビニにあったらいいもの

『インターネット市場調査サービス「DIMSDRIVE」を運営するインターワイヤード(本社:東京都品川区)は2005年4月19日、ネットユーザーを対象に実施した「コンビニエンスストアに関するアンケート」の結果を発表した。コンビニに「あったらいい」と思うサービスの1位は「クリーニング」で、2位は「行政機関のサービスの代行」だった。』

コンビニにATMが設置されている店も多くなり、大抵の店でタバコとお酒も扱うようになってきたが、まだまだ利用者がコンビニに求めるものは多い。日経BPの記事に掲載された、このアンケート結果である。一位のクリーニングは確かに私もそうであるかなぁと思う。都市圏なら通勤通学路に一店はコンビニがあるだろうから、行きに服を出して、帰りに引き取れるというのは実に理想的。

二位の行政機関も、お役所仕事が故に早い時間で業務を終えてしまうし、代理としてコンビニが為してくれるならば、便利だろう。本などの書籍の受け取りサービスも実施されているし、あり大抵のものならばコンビニで揃ってしまう。実際、先日朝日新聞などに掲載されたこの記事では『コンビニエンスストア大手5社の05年2月期決算が14日出そろった。セブン―イレブン・ジャパン、ローソン、サークルKサンクスは連結の当期利益で最高益を更新した。』となっているし、右肩上がりだ。

コンビニの役割として広い駐車場を持つ店舗も多い。長距離ドライバーの仮眠の場所や、食事を車で済ませる場合など、店舗内ではなく外の部分でも役割は示される。トイレなども最近では一つではなく数個置くところも多いし、商品の品揃え以外でも確かな地位を確立している。

24時間営業が当たり前となり、深夜帯は大学生などにとって恰好の高収入の場と化しているし、様々な面で密接な関係にある。『10代以上の男女1549人の回答を集計したもので、全体の99%が「コンビニを利用している」と回答した。このうち、頻度では「週に2~3回程度」が最も多く29%に達していた。以下、「週に1回程度」(21%)、「週に4~6回程度」(19%)で、「毎日」という人も11%いた。ただし、1回に使う額は少なく、最も多かったのは「500円~1000円未満」の44%。1000円未満が88%を占めていた』からも、うかがい知れる。』

はたして今後どこまでのサービスを提供するのかはわからないが、コンビニの便利さで、百貨店やスーパー、個人商店に皺寄せが来ることは必死である。しかしながらまだまだ店舗数は増加していくだろうし、より一層身近な場所と化すであろう。

教師の自殺と生徒へと

恐らく明日にはマスメディアが騒ぎ出すであろう、新人教諭の教室での自殺事件が起こった。先に断っておくが、今回書いていることは全くの憶測であり、事実と反している可能性もあります。『小学校の図画工作室で、4年生担当の男性教諭(22)=同県幸手市=が首をつって死んでいるのを校長(55)が見つけ、119番した。』とあるのだが、果たしてどうであろうか。まず校長自身が教室を見て周ると言うのも、あまり聞かない話しだし、万が一にも生徒による発見であったとしたら、その生徒のショックは計り知れない。

また『教諭は今春採用され同校に赴任したばかりで、市教委は「明るい性格で勤務態度も問題なかったと聞いている」としている。』とあるが、教師が生徒からいじめを受けると言うケースも少なくない現在では、自殺の理由が何であるかが、最大の疑問である。もし、これが生徒からのいじめであった場合、つまり生徒たちが教師を自殺に追い込んだということになる。これが示す生徒への感情は、想像だにできないし、自殺の理由であれ、教師ではなく個人を優先した教師に対しても、歯痒さを感じてしまう。

死者を冒涜するのはもってのほかではあるが、故人は教師である。教師への道のりが、教職課程の勉強をすることと、実習でとれてしまう免許制度であったとしても、学校での自殺と言うのは許されざることではなかろうか。昨今の教師から生徒へのセクハラや様々な事件が多発している。いつまで現状の免許制度を続けるのであろう?

相手が高校生にもなれば友人のような感覚で指導できるし、相手がそれ相応の年齢であるから、小学生よりは教えやすいかもしれない。結局、小学生を指導すると言うのは非常に難しいのではないかと思う。まず手を上げるのは御法度である現在だし、指導するにも言葉しかない。体罰が最良の手段と言うことではないが、代替の方法があるわけでもない。結論として、現状の教師と職業の方々の自意識の問題になるのであろう。

勉強は学校より塾であるとか、生徒の躾は保護者の領分であるとかを耳にする。ならば学校とは何だろう?教師とはなんだろうと思えてくる。それでも生徒は学校へ行くし、教師を目指すものもいる。理想と現実の温度差はあるだろうが、改善しようとしなければ、それこそ腐った蜜柑の原理になる。

反日と反米と

テレビなどで連日放送されている中国における反日デモだが、どの局も共通して放送しているのが、デモ参加者が笑顔でいるという点、産経スポーツの記事をあげておく。『「日本製品をボイコットせよ」「釣魚島(尖閣諸島)を返せ」。中国上海で16日起きた反日デモ。勇ましい掛け声とは裏腹に、小さな子供を連れた家族連れやアベックなどが多数参加して笑顔を見せながら行進、お祭り騒ぎのような和やかな雰囲気に包まれた。』とあるように、どこまで本気なのだろう?と思う

本気を示す材料として不謹慎かもしれないが、イラクにおける反米の行動を思い出していただければ簡単だ。何人もの兵士が亡くなり、月に一度ぐらいは自爆テロも起きている。宗教的なものや、歴史的なものの差異はあるが、根深い憎悪と言う点では日中間でも同じことである。だが負傷が出始めているとは言えデモ行進にとどまっている。

さて中国に日本企業がどれだけ存在しているか皆さんは御存知だろうか?こちらを見ていただければ一目瞭然だが、圧倒的に増加傾向にある。即ち何が言いたいかといえば、それだけ多くの中国人が日本企業において働いているわけだ。ならば、本気で反日を推進したいなら仕事をボイコットでも何でもすれば良いわけである。だが、実際は日本における中国製品の進出や、日本製品の中国への進出、どちらもなくなっては困るものであり、そういった背景の下でデモレベルで留まっているのではなかろうか。

こういう状況であるからこそ日本側は落ち着いて自体を見ていればいいのだが、そう上手く行かない。こちらも朝日新聞に掲載されていた。『日中学院(吉田隆司学院長)正面入り口のガラス扉に、直径3ミリほどのくぼみが四つあるのを出勤してきた清掃員が見つけ、警視庁富坂署に通報した。近くに金属製の弾が落ちており、同署は、中国での反日デモへの反感からエアガンのようなもので撃った可能性があるとみて、器物損壊の疑いで調べている。』と、ある様に日に油を注ぐ行動が現れ始めた。

やったらやり返すは実に不毛だ。マスメディアで連日報道されて入るものの、中国現地での被害はある程度で収まっている。ただ懸念されるは株価の動きで、下降してきており、徐々に反日デモの効果が波及しているようだ。長期戦はもってのほかで、どちらかが折れなければ事態は終息へと向かわないだろう。実際日中間で商業は成立しているのだから、どちらも折れて終息するのが一番なのだが、まだまだ続きそうな気配である。

4月第三週を振り返る

今週は野球において驚かされる日が多かった。何しろ日曜日の一時間早めて試合を開始すると言う取り組み、そして先日の巨人VS阪神戦が放送していたテレビ朝日が、野球中継の直後にニュース番組を持ってくると言うことで、22時まで放送を行ったと言うこと。野球中継の低視聴率で困るのは当然ながら、日本テレビだけではない。 こうして延長と言うわけでなく、放送を最後までしてくれると言うのは良い案ではなかろうか。

またすっかり話題として取り上げなかったが、ドラえもんの声優陣が一新された。違和感がないといえば嘘になるが、今までを忘れて、これからの声優さんたちにがんばって欲しいと言う気持ちに尽きる。実際ドラえもんだけではなく、サザエさんもカツオとワカメの声優は変わっていますし、マイナーではないけれどコナンでも声優は変わっている。ルパン三世にせよ、何にせよ、結局は時間しか解決できない事柄だろう。不変はありえないわけだ。

携帯電話についても扱っていたが、何しろ最先端の技術の最小公約数が携帯電話といえるようで、カメラに続いてオーディオプレーヤーとしての位置づけも加わるかもしれない。それこそ朝起きる目覚まし、新聞代わりにネットで記事を読む、定期の代わりに携帯をかざす、など全てが勤まってしまう時代も近いかもしれない。ただ海外旅行へ行く際に、お金は幾つかの財布に分けたほうが良い、に同じく、いくつかに役割を分けたほうが安全面は高いだろう。

その他、中国の反日デモは、安保時代にも日本で反米が起きたものだし、起こって当然と言えば当然だろう。ニュースでもやっていたが、戦争において仕掛けた側よりも仕掛けられた方に記憶が重く残るのと同じで、アメリカ他連合軍に敗戦した日本が反米をし、日本に侵略された中国が反日を行う。然るべきことなのだろう。

今週も色々起こるであろうが、何よりも平穏であることを望む。


死とスポーツの狭間で

『今月3日の初防衛戦で10回TKO負けを喫したあと、意識不明の重体に陥っていたボクシング前日本スーパーフライ級王者・田中聖二選手(金沢)が15日午後8時43分、入院先の大阪市内の病院で亡くなった。28歳だった。』

スポーツニッポン他、Yahooのトップニュースにも掲載されていたが、一人のボクサーが亡くなられた。スポーツ、特に格闘技に関してはより死に近い場所で、己の全てを出すことになる。格闘技、とりわけプロレスに対し熱心なファンである私も、見始めて約7年の間に何人もの人が亡くなったり、重症を負った姿をみてきた。

一人は福田雅一選手。試合中の事故により亡くなったのだが、これによってプロレスは八百長だなんだという感覚は無に帰した。死者のでるお遊びなんてあって欲しくないし、命の危険のある競技であると改めて感じさせられた。もう一人プロレスラーの方でハヤブサという選手がいる。ハヤブサ選手に関しては、私自身がファンであったし、衝撃度合いも半端ではなかった。ハヤブサ選手ほど綺麗な空中技を魅せてくれる人はいなかったし、何より存在が格好よかった。リンク先を見ていただければ、詳しくわかりますが、現在はライブ活動を行っているそうです。再びリングに上がる姿を見たいと切に願うファンの一人です。

スポーツである以上、死者を出すべきではないし、死者の出るスポーツはスポーツではないかもしれない。だが、だからこそ非日常的な空間を楽しむことができるのも事実で、そうした観客の望むものを追求していく限り、死は付き纏うのかもしれない。ボクサーのパンチが凶器であるというのは周知の事実で、それが互いに鍛えあった対戦相手でも致死する可能性もある。プロレスもまた同じで、派手な技や、空中戦には怪我や死が近い。

ただ、やはりこうした事故を聞くたびに嫌な思いが身を包む。肉体が商品と言うと冷酷かもしれないが事実そうであろうし、こうした競技をしている限り怪我との戦いであろう。だからこそ、こうした格闘技を茶化して見る方を好きにはなれない。楽な競技なんてないと思いたいし、理想論でも構わない。ただ死亡という二文字を見る度に、致死性の競技なんだと肝に銘じている。