携帯で読書&ネット世代と私たちと
ITmedia にて掲載された、携帯電話での読書についてのアンケート結果である。綺麗に世代ごとの差が出たわけであるが、皆さんはどうだろうか?私は20代であるが否定派だ。その理由としては記事中にある『やはり本は紙で読みたいので。』である。
賛成派の理由も挙げておくが、『「コミックも読めるし便利そう」「立ち読みができるのがよい」など。』である。確かに本はかさばる。私自身の私室が狭いこともあるが、結構な面積を書籍が陣取っている。また、例えば通勤通学時に、ハードカバーの上巻の終わりが目の前であったとき、下巻を持っていくと結構な重さになってしまう。そうでなくとも本は重さと面積はとってしまうし、それを嫌がるのかもしれない。
しかし私は否定派であるし、そちらの肩を持つ。同じくITmedia に掲載されたブログの書籍化サービスについてであるが、書籍化をしたいという人がいるからこそ、こういうサービスが始まるわけで、どうやら読むだけでなく、保存の方法としてウェブ上と言うのは好ましくない、と言ったところらしい。これについても私は全面的に賛成である。
10代の知り合いがいないので詳細はわからないが、生まれてすぐにネット環境に触れた世代と、後々に触れる世代ではギャップが生じるような気がします。例えばネットゲーム一つにしても、小学生が多くいる時代です。友達の家に遊びに行かなくても友達と話せるわけで、これだけでも何かしらのギャップができるだろうなぁと邪推してしまう。
ネットが広まって世界との距離が縮まるというのは表面的なもので、感覚的なものは次代の世代に完全に入れ替わらない限り、ギャップやひずみは拡大し続ける可能性がある。そう考えると高齢者が携帯電話を、パソコンを器用に使いこなす様、一つを見ても明晰というか積極的というか、寛容な人なのだなと感銘を受ける。果たして私たち20代が高齢者になったとき、孫が使う先端技術を気軽に使えるような、ハイカラなお爺ちゃんお婆ちゃんになっているだろうか?
食品衛生
たいてい飲食店のバイトを始めると、上司から手洗い励行や清潔をモットーにと訴えられるものだが、どれだけのアルバイト店員がそれらを守っているだろう?例えば牛丼チェーン店、丼は食器洗い機にかけるものの、湯飲みは水洗いのみという経験がある。例えばテーマパークの軽食を扱う店舗、昨日の焼きそばの蒸しなおしということもある。大手レストランの食品工場では、どんなに手洗いを訴えても、社員ですら簡単に済ましている場面を見かける。しかもこれらは実体験、飲食店でバイトするとそこへ食べに行きたくなくなるというのはごもっともだと頷かされる。
これから梅雨を迎えるに当たって、どのような店舗もより一層の注意や引き締めを行うことだろう。だが結局は100%はありえないわけで、食品衛生に関しては注意するにも、その手前で乱雑に扱われていれば、結局、意味がないわけである。先日、モスバーガーの抜き打ち検査
について書かれているブログを読んだが、確かに店長などはどきどきであろう。
今年もどこかしらの店舗や工場から、食中毒の方が現れ、大腸菌やら雑菌が検出されることだろう。そんな後には気をつけるようにという、注意が来るわけだが、結局はバイト次第で命運は決まってしまうだろう。そうさせない為にはそれなりの衛星を守る器具を備え付ければいいのだろうが、この不況の中でそれはできない。
私が言いたいのはファーストフードに食品衛生面を求めても、ほとんど意味がないといいたいのである。
乱闘も野球の華
はてさて昨日のセ・パ交流戦、野球人気の底上げを狙っての催しらしいが、普段見ない人にとっては知らない選手ばかりであろうから、結局は既存のファンへのサービスに過ぎないのが本当のところではないだろうか?そう思っていた中で、今回起きたのが公式戦における乱闘騒ぎや、巨人のローズ選手の暴言などなど。かつてはナベツネさんの苦言も入るだろうか。
野球はもっともニュースで取り上げられる率の高いもので、それだけに様々な内容が伝えられる。選手のプロフィールであったり、普段の出来事など、他のスポーツでは考えられないほどの好待遇を受けている。だからこそ、そこにも野球人気復活への足がかりはあるのではなかろうか?
今回の落合監督の発言 『「乱闘や暴力行為があるのも野球じゃないか」』であるが、ごもっともと言いたくなるのは私だけだろうか?思い出して欲しいものだが、シーズンオフなどに放送される好珍プレーで、必ず乱闘は取り上げられる。なぜかといったら面白いからであり、目新しくもあるからだ。野球選手は良くも悪くも礼儀正しく、こうした暴挙は乱闘でしか見ることはできない。だからこそ注目されるのだ。
記事の中では暴力の肯定、否定に焦点がある。『「起こってはいけないことだが、野球にはそういうこと(暴力行為)が起こる可能性があるということが言いたかった」と説明。伊藤代表は「暴力を肯定するわけがない」と、真意が誤って報道されたことを強調した。』なんとも苦しい言い訳である。しかしながらそう考えるからいけないわけで、乱闘も野球の中のプレーの一つとして考えればたいした発言ではない。
実際、乱闘は面白い。代表的なのは清原であろうか?普段見られない一面も除けるし、血沸き肉踊ると言うと過剰かもしれないが、そういった感覚が起こる。面白くなければ見ない、それは野球であろうとなかろうと、テレビとして放映されるものとして当然のことだ。だからこそ、こういった落合監督の発言など、興味を引く発言や行動をするべきではないかと思うのだ。優勝をただひたすらに目指すのもいい、だが今までそうして北中での野球人気の失墜、やってみるだけの価値はあるのではと思うのである。
交通網への信頼、その3
「スピード違反」があった場合、自動的に速度超過を抑えるのが、最新型の自動列車停止装置(ATS―P) の設置率、JR東日本が40%を超えているのに対し、7%程度という結果も出てきている。散々再四言いつづけている料金について、結局安全面への補強という使い方はなかったということであろう。また事故発生後、まだまだ復旧の目処が立たないことから市民生活への圧迫 も出てきている。『北側一雄国土交通相は、福知山線の運転再開について、「新型の列車自動停止装置(ATS)導入が大前提」と述べた。』ともあることから、元の状態に戻るまでにはまだまだ時間は必要と見られる。
そして何よりも重要なのは意識レベルのことであろう。ボウリングに関することや、その他多くの不始末が発生し、日勤教育 などの運転士への圧迫についても再考し実行しなければならないだろう。物が壊れただけならば作り直せば済むことだが、人については時間を掛けても直らないこともある。分岐路に立たされているのは間違いないだろう。
この状況下での信頼回復は膨大な時間がかかるが、利用しなければ生活ができないため、JR側には食品に対する不買運動のような多額の減収は考えられない。だからこそ遺族への補償はより一層に努めてもらいたいと思う。今日でこの話題も三回目、次に書くときは良い知らせであることを願いつつ。
電車搭乗時の出来事
いつも利用している某路線電車に、駅のホームの真ん中ぐらいから乗ろうとすると、ゴールデンウィークのせいだろう、家族連れが多く見られた。電車が到着する最中、家族連れが呟いた言葉にはっとさせられた。
「先頭車両はやっぱり人が少ないね」
私自身はそんなこと気にも留めなかったのだが、確かに後ろになるにつれ、車両毎の乗車率が高くなっている。やはり事故の影響と考えるのが妥当なのだろう。
ただ面白いもので電車であるならばどの車両にだって脱線の可能性はあるわけで、どこに乗っても変わらないと思う。それでも人は後ろに乗ろうとする。やはり心理的影響は大きいのだろう。
またその路線電車も女性専用車両を導入する運びというアナウンスも流れていた。今回この路線電車は最後尾を女性専用車両としたのだが、仮に先頭車両だった場合、変更や苦情は起きるだろうか?
事件の影響というのはどこまで広がるかわからないという典型例である気がする。しかし、立っているほうが助かる確率は高い、のような意見が出たら、人はどうするだろう?やはり座るのではないかとおもっている。結局自分に都合の良い事実だけを応用するに過ぎず、一種の占いのような面もあるのだなと感じさせられた。
果たして前のほうが座れるからと、先頭車両が混みだす未来は、いつごろやってくることでしょう?
報道過多と無報道
はっきり言って鉄道関係のニュースが報道過多だ。確かに福知山線の脱線事故の煽りを受けてのことであろうが、それを踏まえても相変わらずテレビなどで報道されるものは、畳み掛けるかのように報道し続け、そして次の話題ができればそちらへと移っていく。だからこそ独自の視点のブログがうけるのだなと、つくづく感じさせられる一面だ。
例えばこんな疑問が思い浮かぶ。果たしてテレビはどんな人に向けて報道しているのだろうか?そこには必ず平均値とされる架空の存在がいて、そういった人を想定して報道しているのだろうが、どれだけ熱しやすく冷めやすい人を想像しているのであろう。そんな傾向にあるからこそ、ネット上の記事が多く利用されるのだろう。
またニュース番組などでの様々な特集も一長一短だ。例えば報道された料理店、翌日には相当数の人がその店に訪れる。即ち、簡単に世間を操れてしまう力を持っているのだが、それにもかかわらず安易な報道が多すぎると思うのだ。安易な報道に関して件の列車事故の報道について、こちらのブログ
で書かれている意見がある。
『専門家と称する人も同じくらい的をはずしたことを言っているのにも落胆しました。たとえば基本的なこと「いきなりブレーキを一番深く踏んでしまったと思う」なんてことを言っている評論家がいましたが、電車のブレーキ、今回事故った207系のブレーキは右手で押し込むシステムですし、いきなり非常制動に叩き込んだからって、自動車と違ってパニックブレーキになるわけではありません。』『でも、「専門家が断定的に話す」ことで、信じ込む視聴者は多いんだろうな…。暗澹たる気持ちになりました。本当に無知は犯罪です。』
以前エイプリールフールに対しても記事を書いたが、そこに触れた内容と同じ意見がある。テレビや新聞はもっとも身近であり、それゆえに信憑性の高いニュースを流さなければならない。真実と書かないのは、必ず捏造された何かもあるからである。
この傾向は今に始まったことではないから、これからも続くのであろうが、何にしても報道過多だ。結果福岡の震災や、新潟の震災は全くといっていいほど触れられることは無い。平均値であるからこそ良き時もあるだろうが、深く狭くを活かしたネットによってテレビは徐々に追い込まれていくことだろう。
交通網への信頼、その2
実際、今週末私は電車を利用したが、その際に事故のことなど微塵も考えなかった。私自身が鈍いのかといった問題は別として、そこには乗らなければならないといった要素がある。他線で事故が起きようと、通勤に利用している電車が事故を起こそうと、乗らないといった行動を示す人は早々いないだろう。
今回の事故について知人がこんなことを言う。どんなに事故に対しショックを受けても、この先電車を乗らない、といったことはできないのではないか、と。しないではなくできない、と言った点が物語っている。代替手段がないのだ。裕福な家庭であればタクシー、といった行動も取れるだろうが、世間一般からしたらやはりタクシーは高いし、電車での距離をタクシーで行くとしたら、軽く4桁の料金を取られる。
昨日に続き言及するが、交通機関の料金とは何に基づいたものなのだろう?無論、会社であるから利益を上げるためというのが本音なのだろう。例えば航空機が、電車が、バスが事故を起こす。その際料金の改訂はあるだろうか?値下げにせよ値上げにせよ、大抵の場合そんなことはしない。そこにはどんな場合でも利用してくれるであろうという観念があるだろうし、それがある限り何も変わらない気がするのだ。
果たして様々な交通機関が今後どのような考えを実行していくかは、わからないが、少なくとも現状のままでは何も変わらない気がする。今回の事件は分岐点であり、胡坐をかき続ければ、第二第三のこうした事件が起きる可能性は否定できない。
交通網への信頼
ふとこうして書いていて気づいた点だが、どうも電車などで切符を買うときに、安全を買うという認識は全くないのだなと気づいた。あくまでも移動距離による支払い義務という点が強すぎて、安全性云々といった点については盲目的な部分を私たちは持っているのかもしれない。サービスを買うという点に関しては電車にせよ航空機にせよ純然たる差が出てくる。但し安全面にはそれほど変化はないだろう。それだけ現在の交通産業の安全面に信頼を置いているということだし、だからこそ昨今のミスの連続は衝撃度が高い。
安全性を確保するということには何が必要であるだろう?操縦するべき人を増やし、個人個人の負担を減らすことや、より高い技術を持ってシステムを改変するか、と言ったものが思い浮かぶ。だがそれらに付き纏うのは間違いなく資金を導入しなければ解決できない。どんなに高精度な交通機関であったとしても人による運転であるから事故は絶えないが、少なくする努力をするべきであろう。
一番気に入らない展開は、運転者のみに責任を転嫁することであり、一つの企業であるからこそより一層の努力に邁進してもらいたいものだ。ただ今回の大惨事にせよ、それだけの間、事故を起こさなかったことに対しては賞賛を送る。但し、どんな事件を起こすにせよ、使わなければならないものであるから、傲慢だけは勘弁してもらいたいものだ。
携帯・・・電話か?
ITmediaにて大々的に報じられているこの携帯電話。上記の仕様を見ていただければわかるとおり、すでに携帯電話という言葉が、過去にあったイメージから逸脱する代物となる。鞄の中に携帯電話、デジカメ、デジタルオーディオプレーヤを入れている人がいれば、携帯電話のみで済んでしまうことになる。またフルブラウザ としても使用できるし、携帯電話の重要性が相当なものになってくる。
『音楽プレイヤーとしての実力もなかなかのものだ。音楽を聴きながらのEメール操作やWeb閲覧などの各種操作が可能。「ムービーの録画以外、ほとんどの機能を音楽を聴きながら利用できる」(説明員)。音楽を聴いている際に通話やメールが着信した場合は音楽が一時停止状態になり、操作が終わると音楽が再生されるという。』
至れり尽くせり、と言ったところだろうか。ただ以前に書いたこともあるが携帯電話に対するウィルスや、単純な紛失における空虚感、そしてなくしてしまったことによる個人情報を含めたあらゆる情報が他者に知れ渡ってしまうわけで、危険性は増す。全てが可能となる媒体は、同時に全てができなくなる可能性を含有しているということだけは注意するべきだろう。
また気になる点は携帯電話がこのような付加価値をどんどん増やしていくと、デジタルカメラ、オーディオプレーヤー単体の売り上げというのはどうなるだろう?それほど多くの人が単体として買おうとは思わないだろうし、ほとんどが携帯で済んでしまうのは結構恐ろしいことなのかもしれない。兎にも角にも携帯電話はすでに電話以外の機能が必須となっている。果たして今後導入される機能は何になるか、気になるところである。
まずは読むことから
問屋を豚屋、近所を金所、梅雨を倍雨。読売新聞
のCMで流れた現代教育への疑問符、とでも言えばいいだろうか、それを見たとき、やはり唖然としてしまった。問屋、梅雨は許容範囲だけれどさすがに金所は、どうだろうか?そんな状況を危惧してかどうかは定かではないが朝読書
を導入している小学校が増えている。
『朝の始業前に全校一斉に読書活動を行う「朝読書」に取り組んだ小学校は2004年度、79・7%に上り、前年同期比で7・4ポイント増え過去最高となったことが27日、文部科学省のまとめで分かった。中学は6・2ポイント増の66・0%、高校も5・3ポイント増の25・7%でともに過去最高。』とあるように、右肩上がりであるようだ。
PCでの文書作成が広まって、漢字が書けないというのは聞いていた。ならばなぜ読む力は衰えないかといえば、新聞を読んだり、PC上でも記事を読んだり、そして読書があるからだろう。漢字って言うのは御存知の通り、だいたいのパターンがあって、見たことがない漢字であってもなんとなくニュアンスでわかるものだ。だがそういったバックボーンがなければ、読むことも書くこともできなくなり、その結果が件のCMということになったのだろう。
読書というと硬いイメージをもってしまう子供たちが多いのかもしれないが、どんな本だって読めば知識となる。私は古典を勧める気もないし、文学作品を読めとも思わない。まずは読む面白みを知ってもらいたいものだと思う。内容を楽しんだ上、漢字や読解力が増すならば一石二鳥、三鳥にもなる。こういった意味でもぜひ続けて欲しい朝読書である。継続されていけば、四文字熟語、諺、様々な知識も増えるし、流れているCM のようなお粗末な結果になることはないだろう。