「いいんですか、めぐみさん」
開店準備をしながら沙智はいう。
「え? なにが」
「直ちゃん」
「う~ん、でも、許してくれるわよ。記念日は来年も、再来年もあるし」
「でも、4周年はきょうだけですよ」
「じゃあ、なに?」
めぐみは沙智の顔を凝視する。
「せっかく仁志がきてくれるっていうのに、きょうは来ないでていうの? そんなこといえるわけないじゃない。今年は年末でもヒマな日が多かったし」
「それは、そうですけど」
「たしかにね、直ちゃんには悪いと思ってる。めぐみ、甘えてるって思ってる。直ちゃんはめぐみにとって大切な、大切なお客さん。ただね」
「ただ?」
「お客さんでしかないの。それ以上でも、それ以下でもないの。お店がヒマでさっちゃんに払うお給料とか、めぐみの生活費が足りなくなっても直ちゃんに肩代わりしてもらうわけにいかないでしょ。ヒマになりそうなときは直ちゃんに連絡してきてもらうこともあるけど、それはお客さんとしてだけ。その代わり、直ちゃんにはうんと楽しんでもらってる」
カウンターにグラスとコースターと灰皿を3つ並べる。離れた店の奥の席には、高橋の分を用意する。
「直ちゃんは、わかってくれるはず。やさしいし、いい人だし、なによりもめぐみのこと、気に入ってくれてるし」
沙智は納得いかない表情でめぐみを見た。
「同伴のなくなったのは、不幸中の幸いか」
つぶやきながら、小走りで駆け寄る。店内からは、盛りあがったカラオケの歌声が漏れ聞こえた。
「なんだか、いやな予感がする」
空気が重苦しい。風はないが足元から寒さが忍びあがってくる。墨色の空を背景に、マゼンダの入居するビルが威圧感をあたえる。
そのとき高橋は、ビルの片隅に人影を見る。はっきりとはわからないが、小柄で髪の長い少女のような姿だ。
「あれ?」
たしかめようとする高橋の視線に気づいたのか、影は物陰に隠れて姿を消した。
「なんだろ、まあ、いいか」
ドアを開ける。人の温気と絶叫に近い歌声が真正面から壁になってぶつかってくる。
「いらっしゃ~い」
めぐみがはずんだ声で迎える。高橋は、用意されていた奥の席に座った。
「仁志か……」
高橋は、だれにも聞こえない声でつぶやく。
仁志の前のカウンターには、アルマンドが2本、そして封を開けて間もないであろうウイスキーのボトル1本が乱雑に並んでいた。
「いらっしゃい」
めぐみの頬は赤く染まり、すでに酔っていた。
「水割り?」
「うん」
「めぐみもいただくね」
「大丈夫?」
「なにが?」
「めぐみちゃん、もう酔ってっる」
「わかる? めぐみ、8時から飲んでるから」
二人分の水割りグラスが互いに触れあって冷えた音を立てる。高橋はグラスを舐めてコースターの上に置き、タバコを咥える。めぐみはライターを取り出して火をつけた。
「ねえねえ、直ちゃん、おぼえてる? めぐみが直ちゃんの鼻に火つけそうになったこと」
「おぼえてるよ。それに、店を開けて間もないころ、めぐみちゃんはよく風邪ひいてた」
「そうそう、最近はぜんぜん引かなくなった。強くなったのかな」
めぐみはグラスを持ち上げてあおる。
「そうだ、まだフグ食べてない。直ちゃん、約束してくれたよね」
「なにを?」
「やだ、シーズンで初めてのフグは、めぐみと食べるって」
「うん、約束した」
「直ちゃんは、もう食べた?」
「まだ、約束だから」
「きょう行きたかったね。今度、行こう」
「うん」
沙智が仁志たち3人の相手をしている。めぐみは高橋と思い出話を交わす。
「もう4年、まだ4年? 早かったのかな、長かったのかな」
「早いような、長いような」
「わがまま、いっぱいいっちゃった。この時計のこと、おぼえてる?」
めぐみは左腕をあげて、手首の腕時計を見せる。

「カルティエ、ほっしいっていってたから」
「でも、あの日に急に買ってくれるって思ってなかった。腋に変な汗、流れたのおぼえてる……。そうだ、お祝いしなきゃ。何にする?」
めぐみは期待を込めた目で高橋を見つめる。
「そう……、ドンペリでいいかな」
「直ちゃん、いつもありがとう」
めぐみは身を軽いステップを踏んで、店の奥へ消えた。
「かんぱ~い」
めぐみと沙智、そして高橋のグラスが触れ合う。一気に飲み干した沙智は、仁志の前に立つ。高橋とめぐみは、話をはずませる。
「なあ、めぐみ、ちょっと」
仁志がめぐみを呼んだ。
「はーい。直ちゃん、ごめんね。すぐに戻るから」
言い残してめぐみは沙智と並ぶ。しかし、時間がたってもめぐみは高橋のところにこない。
一人でグラスをかたむけ、時の過ぎるのを待つ。スマホを見たり、ぼうっと宙に視線をただよわせたり、ときおり仁志たちの方を一瞥する。
沙智は仁志の連れと話をし、めぐみは身を乗り出して仁志と言葉を交わす。仁志も身体を前にかがめ、カウンター越しに距離を縮める。
「なんだよ」
高橋の感情はいら立ちつつあった。
「きょうは、何の日だと思ってるんだよ」
たしかにアルマンド2本とウイスキー1本だから、金額的には仁志が勝っている。だからといって、放置していいといいわけもあるまい。
「あと、20分たって同じなら帰ろうかな」
めぐみと仁志の距離はさらに縮まり、手も握り合っている。高橋の頭に血がのぼり、身体が震え出す。するとめぐみはカウンターからホールに出て高橋のうしろを通り抜け、仁志のとなりに座った。
高橋は見て見ぬふりをする。囃し立てられるままにグラスを空にしためぐみは、仁志にしなだれかかる。
「あの、お客さんはいいの?」
「いいの、直ちゃんはやさしいから」
「直ちゃんっていうんだ」
仁志はニヤけながら高橋を見て会釈した。
高橋の頭の中で線が切れた。そして沙智を呼ぶと、勘定するように告げる。
「帰るんですか? タクシー呼びますか?」
沙智の言葉にめぐみが反応する。
「どうしたの直ちゃん、帰るの?」
「うん」
「いつもみたいに、いっしょに帰ろうよ」
「いや、いい」
「楽しくないんだ」
「そんな、わけ……、いや、楽しくない」
イスをまわして高橋の方を見るめぐみ。沙智は高橋から受け取ったクレジットカードで会計を済ませる。
高橋はカードを財布に入れ、席を立とうとした。そのとき、仁志がめぐみのうしろから手をまわして抱きしめる。

高橋の目の前が白く炸裂する。握ったコブシが震える。
高橋は足早に店を横切ってドアを開けた。
一歩一歩踏みしめながら階段を降り、立ち止まって大きく息を吐く。感情をおさえようと、何度もまばたきをする。風景はぼやけ、アスファルトの黒、空の黒、ビルの影の黒がにじんで見える。
そのとき、だれかが立ちふさがるようにして高橋の前に姿を見せた。
「百花」
百花は射るようなまなざしで高橋を見る。

「え……、ああ」
「それは、めぐみさんですか、仁志さんですか」
「仁志だな」
「仁志さん、憎いですよね」
「ああ、殺したいくらいに」
酔いと怒りに任せ、高橋はつい口をすべらせてしまう。
「殺していいんですね」
「え? ああ、まあ」
「わかりました」
百花は高橋の横をすり抜け、階段を駆け上がる。左手にはトートバックを持っている。その中に手を入れ、柄のついた細長い金属を取り出す。
包丁だ。
「百花……」
百花はドアを開け、中にすべり込んだ。
扉がゆっくりと閉じられる。静寂がただよってくる。時間の流れが遅い。
高橋は、ふと口にしてしまった言葉に不安をおぼえた。握りしめた拳の中で汗が滲み、脚の筋肉がガクガクと震えはじめる。
「キャー!」
悲鳴が響く。扉が開き、百花は包丁を片手に店を出てきた。
階段をおりてきた百花は、荒い息を吐き、高橋を冷めた目で見る。
「高橋さん、終わりました」
「も、百花……」
包丁からは鮮血がしたたり落ちている。それが、だれのものかはわからない。

「やばい」
高橋は百花の手を取り、大急ぎで、その場を離れた。
