「へえ、そんなことがあったの?」
 カウンターの中からめぐみはいった。
 高橋が行きつけにしているスナック、店名はマゼンダ。幹線道路に面した雑居ビルの2階に店はある。入り口は吹きさらしで、鉄製の階段をのぼってたどり着く。
 オープンは3年前だが、ママのめぐみとは、かれこれ4年の付き合いになる。
「で、ラインはきたの?」
「うん」
「どんなの?」
「これからよろしくお願いします、てだけ」
「返事は?」
「こちらこそ、て返した」
「やだ、直ちゃん、その変な女の子と、まだ会う気があるんだ」
「ないよ。でも、既読スルーもかわいそうじゃない」
「そんなところが誤解を生むのよ。その気もないのに」

 


 カウンターが12席と6人がけのボックス席が1つ。高橋から離れたカウンター席には客が2組いて、それぞれの前に店の女の子が立っている。
 めぐみは高橋のボトルを手にして、ウイスキーの水割りをつくる。
「まあ、そのやさしさが直ちゃんのいいところだけど」
 やさしい、やさしい。その言葉に高橋は、多少うんざりしている。
 めったに怒らない。声を荒らげたりしない。見た目も優男だし、めぐみに対しても店の女の子にしても呼び捨てにしない。
 ただ、それだけだ。それがやさしいというのなら、やさしくない男は人間としてどうか、とも思う。
 高橋はカウンターに置いたタバコの箱から1本とり出して咥えた。めぐみが素早く火をつける。
「話は変わるけど、めぐみのお誕生日」
「ああ、来月の13日ね」
「おぼえてくれてたんだ」
「当たり前」
「お誕生日のおねだりしていい?」
 めぐみは媚びを売るように身体をひねり、上目づかいで高橋を見る。
「なに?」
「シャンパン、飲みたいのがあるの」
「いいよ」
「ちょっとお高いんだけど、いい?」
「いくら」
 めぐみは腕を突き出して両手をひろげた。
「10万!」
「そう、ダメ?」
 唇をとがらせて、小首をかしげるめぐみ。
「い、いや……、わかった、いいよ」
「ヤッター! 直ちゃん、ありがとう」

 

 

 めぐみは、その日に40歳になる。それなりの年齢だが、57歳の高橋から見れば若い。

 知り合ったのは、めぐみがこの店を持つ前、ほかのスナックのホステスとして働いていたときだ。
 地元の友人と開いた忘年会の二次会で、高橋らはボックス席に陣取った。そのとき、高橋のとなりに座ったのがめぐみだった。
 話を交わすうちに意気投合してしまい、ラインと電話番号を交換する。
 めぐみはスリムで平均的な背丈だが、腰の締まったメリハリのあるスタイルをしている。黒髪を素直に伸ばし、立ち振る舞いや表情に、匂い立つ色気が感じられる。
 特別美人というわけではない。が、それがかえって高橋の心をなごませる。離婚してから長らく女性に縁のなかったさびしさをまぎらわせるには、ちょうどよかったのかもしれない。
 知り合った日から、めぐみは日を置かずに営業のラインを高橋に送る。誘われた高橋は、月に1度程度通うようになり、次第に2度、3度と増えていく。
 それまでにも、スナックやラウンジなど、女性が接待してくれる店には行ったことがある。ただし、友人や同僚、取引先などだれかと一緒だ。一人で足を踏み入れたこともない。特別お気に入りの女の子を見つけたこともない。
 それなのに、めぐみは違った。
 やがてめぐみは独立し、高橋は週に1度以上の割合で新しい店に足を運ぶようになった。
「やっぱり、直ちゃんはやさしいね」
 めぐみは両手でVサインを出し、ピョンピョンと身をはずませた。

 めぐみと高橋を乗せたタクシーが、高橋の住むマンションの前に到着する。
「きょうはありがとう。またね」
 高橋がタクシーから降りると、めぐみは手を振って告げる。

 
 

「ふう」

 走り去るクルマを見送った高橋は、大きくため息をついてエントランスに入り、エレベーターで6階へ。一番奥の部屋が、高橋の住む1LDKだ。
 蛍光灯の灯る共用の通路は、低いフェンスでさえぎられているだけ。空には、遠慮がちに半分顔をかくした月が浮かんでいる。
 冷気をこらえてカギを開け、玄関に入る。左手前にトイレ、そのとなりが浴室。突き当りの扉を開けると、バルコニーに面したリビングダイニングがあり、左の引き戸の向こうが寝室だ。
 リビングに入った高橋は、通路側にあるキッチンの流しへと向かう。コップを水道水で満たし、そのまま一気に飲み干す。
「やさしい、やさしい……、か」
 寝室の扉を開け、スーツ姿のまま着替えもせずベッドに寝転ぶ。
「10万円のシャンパンって、キャバクラやラウンジじゃあるまいし」
 めぐみの店は、高橋のマンションからクルマで20分程度の位置にある。帰る方向がいっしょなので、ラストまでいるとめぐみはタクシーで送ってくれる。ただし、タクシー代として、高橋は毎回1万円をわたす。
 めぐみの自宅までは、店から3000円もかからない。差し引いた金額は、めぐみの小づかいになるわけだ。
「カネのかかる女だぜ」
 めぐみとは、手を握ったことがある程度の関係だ。キスもしたことがない。何度かチャンスはあったものの、強引な行動は苦手だし、やはり拒否されるのが怖い。 
 一人暮らしが長い。性欲はエロ動画を見て自分で処理する。風俗に行くのは、なんだか気が引けてしまう。店に出向いたり、電話をかけてホテルで待ったりするのがわずらわしい。
「百花か……、本当にサセてくれるのか?」
 ジャケットの内ポケットからスマホを取り出し、ラインを確認する。百花は高橋の書き込みに対して返事を送っていた。
「百花は待ってます。ううん、百花からまた、会えそうな日を選んで連絡します。そのときはよろしくお願いします」
「よろしくって、なにをよろしくするんだよ」
 百花の容姿が脳裏に浮かぶ。
 さほど悪くはない。スタイルはそれなりに整っているし、何よりも若い。裸にむけば、それなりの魅力が感じられるだろう。

 

 
「させてくれるっていうんだから、邪険にすることもねえよな」

 待ち合わせをして、食事でもして、ホテルに入る。抱きしめて、キスをして、服を脱がしてベッドに入る。
「何年ぶりだろう」
 セックスどころか、生身の裸体もごぶさただ。肌と肌が触れ合う感触も、体温も、忘れてしまいそうになっている。
 スマホをベッドサイドのテーブルに置き、高橋は無言で天井をながめていた。
「……、寝よう」
 むっくりと起きあがると、スーツとワイシャツを脱いでハンガーにかけ、鴨居につるす。そして、ベッドの上に脱いだままのスウェットに着替え、布団にもぐりこんだ。