これからお読み頂く内容は長く、もしかすると立場によっては不快な思いをなさる方がいらっしゃる
かもしれませんがそれを覚悟して私なりに誠意をもって寄稿させて頂いたことをご理解頂けると幸いで
ございます。
昨日の記事を投稿した後、偲ぶ会にてお声掛け出来なかったMさんのご主人様にお電話致しました。
素晴らしいお別れの会になったこと、そして私の思いや病気のことなど記事にしたい旨を
申しましたら、どうぞお役に立てるのでしたらと快諾頂きましたのでお名前を出させて頂くことにしました。
一昨日のリッツ カールトン 東京で行われた「梶山美季さんを偲ぶ会」は美季さんらしい慈愛に満ちた、
悲しくも温かな会でした。
私は美季さんと最初にお仕事で出会ったのは20年以上前になりますが
その時から美季さんは編集者に成るべくして成られた作家のお父様のDNAを受けつぐ才能の光り
輝く方でした。
私より若いのに頼りがいがあって、スタイリストの本領を十分に発揮させてくれる縁の下の力持ち、
編集者のお手本のような人でした。
それはスタイリストに限らず、あらゆる職種の関わった方々皆さんそう思われたに違いありません。
お仕事では時々、間が空く時もありましたがそれでもご縁があって長年お付き合いさせて頂きました。
ちょうど5年前になりますが、古くからのブログの読者さんや、雑誌の取材などでご存じの方も
いらっしゃいますが、私が乳がんを発病した時、先ずお仕事関係で一番最初にというより親より
先に告白したのが美季さんだったのです。
忘れもしない5年前の春、美季さんとご担当のプレシャス×ルィ・ヴィトンタイアップの打ち合わせ前に
まさか私がという軽い気持ちで検診に行ったクリニックで乳がんの可能性大ということで
一時間も遅刻する羽目になってしまいました。
遅刻してしまい気まずい打ち合わせをなんとか終わり、LVのビルを出た表参道で迷惑をかけた美季さん
に遅刻の理由も言わない訳にもいかず、というよりとにかくだれかに聞いて欲しい不安な気持ちが一杯
で堰を切ったように吐露しました。
その時そばにいたのが美季さんというのも妙な因果で彼女の口から出た言葉が
‘私もそうなのよ!三年前から!だから安心して先輩の私になんでも相談して!’と明るく言われ
全く彼女がそうであることを知らなかった私はそのことにも驚愕したのを今でもはっきり覚えています。
そう、私が知らないのも当然、ほとんどだれにもご自分の病気のお話をしてなかったからです。
多分、私が乳がんになってなければ多くの方々と同じように悲しいお知らせを頂くまで知ることも
無かったと思います。
それは美季さんが自分のことより先ず私達スタッフやクライアントの話を聞くという配慮ある編集者の
スタンスとしてご自分の病気のことでわざわざ周りに心配をかけるのは彼女の哲学に反していた
のではないのでしょうか。
そんな状況下、いつも気持ち良く仕事をさせてもらっている時と同じように私は事あるごとに乳がんに
まつわる事や治療方法など相談して甘えていました。
幸いにも私の悪性腫瘍は治療をしながら仕事もできて、手術も3泊4日、放射線治療はしても
抗がん剤治療はなく比較的安易に済みましたが、美季さんは少なくとも私よりも大変だったと
思われるのに全くその辛さを感じさせることは皆無でした。
私はこの病気が女性特有の部位という恥じらいなくオープンに公表していましたが、美季さんは
そうではなかったということもあり、内密に相談事を繰り返す都度に秘密を共有することで妙な親近感
というか、好きな友達とは同じでありたいという運命共同体のような二人だけの内緒事をつくる子供の
頃持ち合わせた女子にありがちな感情があったように思います。
そんなことを暫く続けるうちに私の治療は進みどんどん元気になっていき、美季さんは多くを語らなかった
ので知る由もないのですが今となっては治療の辛いこともあったかと思うと申し訳ない気持ちになります。
ある時私が、結構普段はもう乳がんのことを忘れてしまうと話したら、‘そうね、病気のこと忘れるほうが
自分がそうじゃないって思えて体にはいいんじゃないかしら?’と話してくれたその時を境にもうこれ以上
顔を合わせるたび病気の話をするのは止めようと決めました。
私もそうですが、美季さんも出来れば自分の病気のことを忘れたいのは当然のことなので・・・
ですから、最後にお互いの病の話したのは3年くらい前だと思います。
その後お仕事やお顔を合わせることが度々あってもお互い心の中だけで‘大丈夫?もう大丈夫よね!’
と声を掛け合っていたような気がしています。
でもそれは私の勝手な思い込みでその間、再発転移して治療もヘビーになっていったのを
あとにご主人の雄三さんからお聞きして何と申し上げてよいやら、編集部の方々にも全く気付かせること
のない凛とした姿勢には心打たれるものがありました。
最近はお仕事でお会いするよりご夫婦でKバレエのファンでいらしてくださったので公演にお越し下さる
会場でバレエ談義をすることの方が多かった気がします。
今年のGW中、5月下旬のKバレエ「海賊」の手配していたチケットのキャンセルしたいと留守電が
入っていてその直後2、3度メールでのやりとりが美季さんとの最後になりました。
メールのやりとりですしお体の具合がそこまで悪化していたとはつゆ知らず、思いたくもなかったので
ネガティブな事は考えないようにしておりましたが後に雄三さんからその時は緊急入院をした矢先と
お聞きしました。
何パーセントかの心配はありつつも、絶対に美季さんは大丈夫、直ぐに元気な姿で会えるはずと
信じていましたが、6月22日深夜に辛くて悲しいご連絡がありました。
雄三さんのお心遣いで深夜でしたがお宅にお邪魔させて頂きベットで安らかに永眠なさった美季さんと
お会いさせて頂きながら私の誕生日6月20日に亡くなったとお聞きしてまたもや勝手なご縁を感じ、
私は一生死ぬまで誕生日が来ると美季さんを思い出して一緒にいられる!と独占欲のような感情が
湧いたりもしました。
こんな大人になっても幼稚な感情がお恥ずかしいですが、もしかすると同じ病気を発病したという
ことをきっかけにいかに私が美季さんのことが好きで仲良くさせてもらったということをただ自慢したい
がためにこのような記事を書いているのではないかとも思ったりもします。
闘病しながらの病床で美季さんは私に病状のことを伝えるべきかどうしようかと悩まれ雄三さんと
お話下さっていたそうです。
美季さんは毅然とした女性だったので最後まで病気のことを公にしない美学がおありでしたが
私にお知らせ下さらなかったのは同じ病気の者だけが知る恐怖感を察知して病気と闘う姿は
見せないようにしていたんだと思います。
最後までどうしてそんなにかっこいいんですか・・・。
まだまだ美季さんとの思い出に浸ってつらつらと書き続けたいところですが、なぜこのような記事を書く
気になったか、そして書かなければならなかったかということですが、
私は発病した時に大騒ぎしておおっぴらに乳がんであることを公表しました。
最初のパニック状態から徐々に冷静になっていき治療をするにあたってかなり勉強して仕事のことの
ように調べ、結果幾通りもの治療の選択があったので記録として残したいということもあり積極的に取材も
受けたり、巷に増え続ける乳がんを発病してしまった方々で直接存じない方でもご依頼があればいつ何
時でもお会いして私の知る限りの情報は提供するということをしてきたつもりです。
いまだに増え続ける日本での乳がん患者、不幸にも患ってしまうのは仕方ないにしても、絶対に検診を
して早期発見することが乳がんの治癒率を上げることにつながります。
再発のリスクが多い病気と言えども、早期発見であれば死を恐れる病でないこと、信頼できるドクターと
病院に出会えれば、がんサバイバーとして有意義な人生を全うすることができることを私が身を持って
証明しなくてはならないと思っています。
私は2007年9月17日、聖路加国際病院で腫瘍摘出手術をし、先日5年目検診が無事終わりました。
一応、予後治療として5年が区切りとなっているので、5年間服用してしていたお薬も終わりとなります。
しかしこの先も半年に一回の検査は継続し、万が一の再発を見逃さぬよう努めなければなりません。
今回の検診は大切で大好きだった美季さんのことと重なり、私も再発転移しているのではないかと
根拠のない不安が襲っていました。
先日検査結果を聞きに私が絶大なる信頼を寄せる執刀医の中村清吾先生を訊ねると、いとも簡単に
その不安を解消してくれました。
普段は全く自分の病気を意識せずに生活していますが、検査のたびに不安になるのはこの病気を
患った人にしか解からないと思います。
でも、そのたびに中村清吾先生はきっとこの先もずっと私達ガンサバイバーのことを見捨てないという
安心感があります。
美季さんのご主人 雄三さんが私の発病より以前の美季さんの発病時期での最初の病院のことや
セカンドオピニオンのことなど悔やまれることをお聞きし、私はここまで書くことがタブーとされても
あえて皆さまにお伝えしたいことは、一抹の不安を抱えた時にセカンドオピニオンをとることや
治療方法などで納得出来きずに病院を変えたいと申し出た時、容認してくれない病院は勇気を持って
見切って欲しいのです。
私は病院やドクターとのしがらみのない、いちガンサバイバーという立場でここまで見解を言わせて
もらいたいことは一人でも多くの患者さんが手遅れになってほしくないと願うからなのです。
美季さんの場合は時期が違えばもっと多くの化学療法が選択できて外国では認可されている抗がん剤
が日本でも認可されていたならば助かったかもしれないと無念に思うのは不毛なことなのでしょうか。
今、日本の医学の現状において制限のある薬事法のもとに私達女性特有の乳がんという病気に
立ち向かうには一般的には先ずはがん検診の早期発見に努めるしかないということです。
まだまだ書き足らない事、拙い文章表現でこのようなシリアスな問題を皆さまにちゃんとお伝え出来たか
疑問ですがプロの物書きではないというところでお許し下さい。
とにかく私の思いは全女性が、少なくとも知ってる方が乳がんで亡くなって欲しくないということ、
ただそれだけです。
これを読んで頂いた方々が一人でも多く意識し検診に行ってくれること、そして家族や友人に、男性
でしたら大切なパートナーの方にお勧めして頂けることを心から願います。
悲しい思いや無念さは出来るだけ少ないほうがいいです。
私も美季さんのお陰で5年も経つと忘れかけていたあの頃の乳がん患者や多くの女性のために何か
役立つことをお手伝いするという精神を思い起こさせてくれました。
この世に生きている人間はそれぞれ使命があって生かされているのだとこの病気を患って学びました。
私はスタイリストの仕事と乳がん撲滅のボランティアが生かされている意味と捉えております。
ですからこの場を借りて大切なメッセージを発信できたことをうれしく思います。
先日の「梶山美季さんを偲ぶ会」実行委員会の皆さま、編集部の皆さまには素晴らしい機会を
催し頂き美季さんとの思い出をたくさん心に刻む事が出来て本当にありがとうございました。
最後に奇しくもこのようなきっかけを与えて下さった梶山美季さん、そして公表することを快諾下さった
梶山雄三さんに心から感謝申し上げます。
そして最後まで読んで頂いた皆さまにも感謝致します。
