米の販売から金融(両替屋)最大のものが淀屋 | 億の細道

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1億円をようやく突破してきました。


果報は寝て待てというけれども、どうですかね?

日本の商品先物取引のルーツは江戸時代までさかのぼる。
江戸時代初期、大名たちは商業の中心であった大阪に蔵屋敷を設け、農民から取り立てた米などを
蔵屋敷に運び込んで蓄え、これを商人に売って藩の運営費用に充てていた。
この蔵屋敷の管理は各藩の武士が行なっていたが、次第に商人達に任されるのが当たり前となり、
彼らは蔵元と呼ばれるようになる。
商人による蔵元は掛け屋とも呼ばれ、米の販売から金融(両替屋)も行ない、徐々に力を強めていった。
その最大のものが淀屋である。

蔵元は、米商人たちが仕入れを行なう際のこんな決まりを作った。
まず、米商人は手付け金として、蔵元に総代金の三分の一の敷銀(保証金)を支払う。
これに対し、実際の米を引き渡すまでの間の証明として"米手形"(一種の証券)を発行し、
この米手形を持参し、残金を支払えば米を引き取ることができるというもの。
すると店先にはいつも米商人が集まり、"米手形"を取引するようになったのである。

しかし、実際の米の取引ではなく、米手形の売買による差金取引を目的にした売買が
行なわれるようになり、幕府は「米相場を不安定にする」という理由で、米手形の売買を禁止した。
それでも米商人たちは堂島に移り米市を続け、やがて幕府にも価格の極端な暴騰・下落が
避けられる事が認められるようになり、1730年には大岡越前の計らいによって
堂島に「米相場会所」が設立され、米の転売買が公認されるまでになった。

世界に先駆けて公認されたこの堂島の【帳合米取引】(帳簿上だけで決済する先物)は、
現在の商品取引所の骨格部門をほぼ網羅していたといわれている。
これが商品先物市場のルーツなのだ。