五蘊無我ショック | 億の細道

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1億円をようやく突破してきました。


果報は寝て待てというけれども、どうですかね?

がっびーん、昼ご飯がお粥だけなんて。いえ。がっびーん、自分が存在しないなんて。 

 理屈では、人は変われない・・・ッ! ショック・・・ッ、変わるためには「がっびーんッ」が必要なのだー。 

 さて、仏道では心と体をあわせて五つに分けて、厳密に考えます。

 無我と申しますとき、その五つの要素を一つ一つ点検して、「これは我だろうか?我じゃないだろうか?」と観察して参りますと、結局のところどこにも「我」なんて発見できぬことが明らかになるのであります。

 以下、心の要素四つと、最後に体が、「私にコントロールできる、私のもの!」と申せるかどうか、ごく簡単に見て参ります。

(識の自動操縦)
 みえるきこえるものも、勝手に向こうから訪れてきます。じぶんで作り出したり、選んだりすることはできませぬ。どれを重点的にクローズアップしてキャッチしてしまうかは、過去の業に規定されています。 

(想の自動操縦)
 キャッチしたものから即座に、過去の記憶や知識にもとづいて、けったいな連想ゲームがはじまります。一瞬にして、勝手にはじまります。その連想も、過去に蓄積した業からピックアップされてきます。 

(受の自動操縦)
 連想ゲームでデコレーションした結果、「快=楽」か「不快=苦」か「アリキタリで興味なし」、か三種類の判断が生じます。何をきもちいいと感じ何をくるしがり、何に対して無関心になるかも、過去の業により決まっています。 

(行の自動操縦)
 楽に対してもっとほしい、苦にたいしてイヤイヤ!、アリキタリなものに無視をして現実から目をそらし妄想が回転しはじめる、という、三種類の反応が生じます。それも業により自動的におこります。 

(色の自動操縦)
 そしてこれら四つの心の作用は、身体という入れ物によりそって発生しますが、その身体を動かしているのは、他ならぬこの四つの作用であります。この四つの作用が自動操縦なんだから、当然ながら身体も自動操縦です。 

 五つの要素、そのどれをとっても、そこに「自分でコントロールしてる」要素はありませぬ。すなわち、どこにも「ジブン」なんてものは見つけられぬのです。無我。

 こういったことを頭で理解しただけだったり、ゆっくりした心で、ときどき実感するだけでは、無我は体得できません。 

 窮地に陥ったボクサーに、全てがスローモーションに克明に感じられるあたかもそのように、次から次に活発化する五つの要素を、「わー、これも無我なのか、これも無我だな、あー、あれも無我、またしてもこれも無我」と一瞬一瞬、ものすごいスピードで無我を観察し続けることによって、「えー、じゃあ我なんてどこにもいないじゃないか、なんてことでしょう」といったショックを思い知らない限り、心の深いレヴェルからの変革はあり得ません。 

 そのショックについては、別に「体験編」を書いて述べることといたしましょう。 

 さて、心を力づくで制御するのはまったく不可能なんだ、ってことに気づいたうえで、向こうから訪れてくる外国人のような感情を入国チェックして、もてなしたり追い払ったりするってスタンスに移行すること。すると結果として、心に対して強引なチカラをくわえなくなるぶん、自由自在になれるのです。この強引なチカラこそ、「ジブン、ジブン!」と主張して他人に迷惑をかける元凶なのではないでせうか。

 ちなみに、もし強引なチカラを加えたくなるとしても、その心もまたある時急に「こうしなくっちゃ!」とわきあがってくるわけで、無我の手の中なのですけれども、ね。

 すなわち、あなたが無我の境地になってようとなっていまいと、どっちにしてもとにかく、「この私」というものは存在しない。無我なんです。

 存在しないものを「存在する」と思い込んで行動するせいで、いろいろ無理が生じてくるわけです。無我がある程度でも体得できると、無我が分かったぶんだけ、訪れてくる流れに逆らわず、反対に流れを乗りこなせるようになりますゆえ、何もかもがうまくゆくようになって、ちょっとした無敵きぶんが味わえるのであります。

 「ジブンが!」という感覚が消え去ることによって、どこにも敵がいなくなる。すると無理して流れに逆らうことなく、身の回りの流れを見極めて、最適なタイミングでごく自然にサーフィンできてしまうようになるのです。無我ゆえに、敵なし、敵なきゆえに、ムテキ。 

 次回、第四回目は、イエデ式に八正道=ハッショードーを攻略して参ります。
仏道入門一歩前
3.2:無我っこショック体験編


 あれは忘れもしない2008年3月18日、タイ国は暑季と呼ばれる時期で、40℃をこえていると思われる、からっとした晴天でした。東北部チャイヤプーム県、スカトー森林寺院の蓮池に渡されたボロボロの橋のうえで、坐禅を始めたのです。 

 たまたま目を開けたまま行う坐禅をしていたところ、無性に、目の前にある橋の柱が気になってしまうのに気付いたのです。その柱が、視界の中心より少しばかり右側にあるのに対して、「真ん中にあれば良いのにズレているせいで気になるよー」と、微細なストレス、苦が生じているのです。のみならず、「もう邪魔だなー」と、その柱を攻撃したくなるような心がポップアップしてきているではありませんか。 

 たかだか、柱の位置に対して、です。悟りを目指して精進しているのに、柱なんかに構っていて、いったい、どうするのでしょうか。 

 ああ、ままならないのです。好き嫌いは、私たちの自由にならないのです。悲しいかな過去のさまざまなカルマの積み重ねによって、これは好き、これは嫌い、と、ほぼ自動的に選ぶように、プログラムされてしまっているのですから。なんて不自由な。 

 「ああ邪魔だなー」その怒りの業は、私の意志とはまったく無関係にポップアップしてきているのです。「わー、こんなつまらないことに苦を感じてるんだ、情けないなー生きてる意味あるの?」・・・あ、苦から、プライドの傷つく煩悩が発生したのです。これも勝手に自動的にカルマが連鎖して発生したんだよな。苦受、苦受、苦受。 

 そのように苦受からプライドの煩悩が自動発生するのを見つめておりましたら、ありとあらゆる感覚や思考が次から次に勝手に湧いてくるのを一つ一つ確認することができ、そのどれ一つとってみても、「私のもの」とは言えず、勝手にやってくるものでしかないのです。 

 「ああこれも私のじゃない」「これも違う」「じゃあ私なんて、何処にいるんだろう」これらの感覚が一回一回、ボディブローのように「私」を破壊してゆくのでした。 

 「ほうら、柱が気になってしょうがない自分が嫌だっていうこのプライドも意志とは無関係に、今いきなり、わいてきた。行蘊無我」 

 「でもでも、勝手にわいてきた、と考えてる自分はいるような気がする」 

 「あれれ、でも、その考えも、気付いたら勝手にわいてきてるし。行蘊無我」 

 「え? ってことは・・・本当に私っていないのかな」 

 「それも勝手に反応してわいてきた考えだし。行蘊無我」 

 「ええーーー!! 本当にいないのかな、自分、本当にいないの?」 

 「それも勝手に・・・うわー、まじですか、嫌だよー、自分がいないってどういうこと? 意味わからないし、そんなこと。だってこうやって考えてるでしょ」 

 「って、その嫌さも考えも、やっぱり、勝手にわいてきてる。識蘊無我、想蘊無我、受蘊無我、行蘊無我」 

「わわー、本当に私はいないんですかー、嘘だよね、本当に・・・いないんですか?」 

 こんな感じが徐々にスピードアップしていって、一瞬の間に、大量の数の心的情報処理が行われているそのどれ一つを取ってみても、必ず「自分」とはまったく関係なく勝手にポップアップしてきているのを目の当たりにさせられ続けるわけです。 

 途中までは、「確かにこれとこれは勝手にポップアップしてきてるけど、次は自分の意志で決めれるかもしれないし」という感覚がどこかに残っているのですけれども、あまりにも高速で次から次に、「これもあれもそれも全部、自分で作ってない」と見せられ続けると、あまりのショックに「自分」がパーーーッン!!と吹き飛んでしまう瞬間が訪れたのです。 

 あまりの「自由のなさ」にショックを受けますと、そのショックにより不自由さの全体からはじき飛ばされて、不自由な「自分」が破裂してしまう感じとでも申せますでしょうか。何故か、あまりの「不自由さ」にショックを受けることによって「不自由さ」が破裂して、自由自在の無敵になれてしまう、といったような奇妙な感じです。 

 それは、何とも表現のしようのないような、徹底的な生まれ変わりの瞬間のようでした。 

 その瞬間から全身がドーパミンに賦活されたかのように、火に包まれたように熱くなって、その熱さもまた勝手にやってきては変化してゆくのだー、とカラダとココロの無我=自動操縦を観察し続けていると、まわりで鳴いたり羽ばたいたりしている生き物たちもまた自分と同じく無我なるままに自動操縦されてるんだなぁ、という具合に洞察が広がって参りまして、全宇宙、あらゆる次元にわたって、すべての存在は自動操縦されるままに連鎖しあっていることへと、認識が広がって参るのでした。 

 私の身体内部を観察すると、ありとあらゆる微細な振動波が出てきたり入ったりしているのが分かるのと同時に、入ってくる振動波は、宇宙全体に存在するあらゆる物質の持つ振動波があわさったものであることも理解されるのでした。そして私の身体とは単に、こういった振動波の集合体に過ぎないのも知られるのでした。 

 私が占めている小さな空間からも振動波が出ていて、すべてが微細な振動として互いに吹き抜けあい、連鎖しあっていることが体得されるのでした。どんな小さな部分をとってみても、全宇宙からの振動波がそこに押し寄せてきているのでした。 

 それが理解された後には、空間的な因果関係から離れて、こんどは時間的な因果関係をさかのぼりはじめることになりました。私が過去に味わってきた、ありとあらゆる苦しみや快楽が、次から次にコレデモカ、という風合いに思い出されるのでした。 

 その中には、私によって完全に忘却させられていたよう心の傷の縫い目のようなものも多数含まれているのです。 

 そして時間をさかのぼりながら、それらの記憶により作られていた縫い目を追体験しなおしながら、縫い目は次から次へとほどかれてゆくのでした。産まれたところまで戻りながら、過去の苦しみを舐め直しつくしましたら、他のあらゆる生き物もこういうものを抱えてることだろうさ、という連想から自然に、同情心のようなものが強烈に湧いてくるのもまた、感じられるのでした。そういった「我」の崩れた地点から、半ば自動的に慈悲の心がわき上がってきて、心はその同情心のみであふりかえり、それが宇宙全体を満たすような具合にしばらく続くのでした。 

 目を開き禅を解いたとき、限りない充実感と共に、すでに半日が経過していました。この日の空気も月光も蝉時雨も魚の泳ぐ音もトカゲがトッケーとなく声も風音も鶏のコケコッコーも、飛んでった綿ぼうしも、後でノートにメモをとろうとしたときその上を這っていた蟻んこのことも、一生涯忘れられぬものとなることでしょう。