Berlioz: L’enfance du Christ/Hector Berlioz

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 少し前にコリン・デイヴィスが亡くなった。これほどの巨匠が亡くなったにも関わらず、新聞では小さな枠が与えられたにすぎなかった。改めてクラシック音楽界と巨匠文化の衰退を感じざるをえない。もしカラヤンの頃の勢いをクラシック音楽が保持し得ていたのならば、きっと彼は時代の寵児としてクラシック音楽界を牽引していたことだろう。クラシック産業時代が縮小し、のだめや物語性のある若手演奏家しか売れなくなってしまった今、彼の社会的な存在価値など新聞の枠に象徴されるような小ささしかないのかもしれない。

 しかし、彼の残した録音の業績はそのような見かけの小ささで収まるものではないのである。彼の録音をきいたことのないクラシック愛好家はいないであろう。ぼくも初めて手にしたシューベルトの交響曲全集は彼のものであったことを記憶している。お金も知識も乏しい学生時代、シューベルトの交響曲集を安価で手に入れたことを喜び、iTunesに入れて幾度となくきいたものだ。その後ヴァントやクライバーの演奏に接して急速に彼の録音とは疎遠となっていってしまったが、ぼくのシューベルト像の原型はもしかするとC.デイヴィスによって形作られているといっても否定はできないのだ。ぼくのクラシック人生の足跡にC.デイヴィスは確かに刻み込まれているわけである。

 それ以来C.デイヴィスのことをぼくは集中してきいたことは一度としてない。訃報をきいて改めて記憶を辿り直したにすぎず、大曲でもメリハリをつけながら無難にまとめるといった優等生イメージしかなかった。クレンペラーやチェリビダッケ、バーンスタインといった逸脱した指揮者に心酔していたぼくのようなラディカル愛好家にとって、C.デイヴィスは少し物足りなかったのである。

 しかしフィリップスから出ていたベルリオーズの幻想をきいて、彼の技量を低くみていたことを反省させられている。「無難」といってはきこえが悪いが、彼の演奏はしっかりとした演奏解釈の土台によって築き上げられた「盤石さ」がある。安心してきけることがどれだけすごいことか。巨匠には後年その個性を肥大させグロテスクになっていく場合があるが、彼は正反対で、無駄なものがそぎ落とされ美しい音だけが残ったのだろう。彼は間違いなく偉大な指揮者であったのだ。別に死して評価が上がったわけではなく、死をきっかけに彼と向き合い直してハッとさせられただけなのだ。サヴァリッシュは改めて聞き直してもかくもその死に思いを馳せ、認識を改めることはなかった。

 だが、一枚だけぼくがはっきりと感動し心にしかと刻みこまれているアルバムがある。ロンドン響とのベルリーズの「キリストの幼時」だ。これについては既にこのブログで語ったことがあるので省略させていただくが、端正かつ清澄な演奏だ。ベルリオーズのレクイエムなどがタイムリーにリリースされたこともあって注目する人もいるが、ぼくにはこのアルバムを彼の追悼の曲として挙げたいと思う。