武満徹:全合唱曲集/オクタヴィアレコード

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 忙しくて、音楽と遠のく日々を送っている。しかし、ただ忙しいからだけでなく、音楽ががぼくの心を騒がせてくれなかったからではないかと、クレンペラーの音楽をきいて思った。きついことを言えば、最近きいた演奏がどれもつまらなくて、ぼくの音楽的感性がすっかり鈍ってしまっていただけなのだ。クレンペラーのモーツァルトをきいた時、すっかりご無沙汰だった音楽的感動が間欠泉のようにドバッと溢れ出てきた。さっきまで、音楽をきく喜びにどっぷりと浸っていたところだ。

 ただ別に、おもしろくない音楽ばかりではない。例えば、山田和樹と東京混声合唱団による武満の合唱曲集は白眉の出来だった。昔ながらの暑苦しい発声による音源しかない武満の合唱曲にようやく現代的な演奏例が生まれたことは、日本の合唱人にたちにとってこの上ない吉報であっただろう。このアルバムについては後日コメントをアップしたいと思う。

 それでも、やはり時にはクレンペラーやチェリビダッケ、バーンスタインのような規格外の演奏家たちの演奏家たちの演奏に触れて、頭をきれいにリセットしなければならない。彼らのあまりに大きな個性という金槌で、頭をがつんと一発叩かれるようなショックが、この趣味を末永く続けていくためには必要なのだ。

 そのことを、クレンペラーによるモーツァルトの交響曲第25番をききながら切に思った。最初のあの冒頭のフレーズが、クレンペラーらしい美とは無縁の鋭敏な音によってかき鳴らされる。実にスマートな現代演奏家たちの演奏に慣れきっていたぼくの耳が、本当にスパッと切られたような思いがした。その後にふつふつと、大きな感動の塊が胸の底からこみ上げてくる。批評的な耳云々を超えた純粋な感動だ。そうだ!これこそ本当の感動だよ!っと膝を叩きたくなる。
 「アダージョとフーガ ハ短調 K.546」も格別に良い。モーツァルトには珍しく、男性的でドラマティックなこの曲は、クレンペラーの冷徹な音が最高に冴え渡る。ベートーヴェンの大フーガとともに、クレンペラーと最高にマッチする曲のひとつであると勝手ながら思っている。

 というわけで、今音楽をききたくてたまらない衝動がぼくを突き動かしている。最近なまりきっていた筆もまた再始動するだろう。次回は武満の合唱曲集を取り上げたいと思う。乞うご期待。