Miserere / Palestrina / Missa Papae Marcelli/Gimell UK

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半眼訥訥 (文春文庫)/文藝春秋

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 先日作家である高村薫のドキュメンタリー番組で、番組の最後がアレグリの「ミゼレーレ」をきき入る高村薫の映像だった。高村薫はピアノを弾き音楽にも精通しているゆえ、音楽の文章も書いている。どれも高村薫の文章力と洞察力が存分に発揮され秀逸だ。いつか連載でも持って、本腰を入れて音楽について語ってほしいと僕は願っている。

 でもピアノ曲ではなく、アレグリのミゼレーレという宗教曲を選んだのが意外だった。あの眉間に皺をよせ険しい顔つきで音楽に耳を傾ける時、彼女は一体何を考えているのだろうか。

 高村薫は最初、合田シリーズを初めとする大衆小説家としてキャリアをスタートさせたけど、『晴子情歌』以降純文学へと舵を切った感がある。エッセイも何冊か出版していて、僕はその頑固な親父の説教のような語り口が好きで読んでいる。新聞でもよく意見を求められ、その鋭い視点に、自身を反省させられることも多い。彼女の興味の範囲は大変広く、深い。彼女ならば、この曲から何を感じ取り、どう語るのだろうか。

 彼女が聴いていたのはタリス・スコラーズの演奏だと思う。アレグリのミゼレーレはタリス・スコラーズの代名詞ともいうべき曲だ。幸運にも来日公演で、実際に演奏に接することができた。僕の中で最も素晴らしい音楽体験のひとつだ。この音楽は教会の特性を活かし、歌い手を数カ所に配置して声を響かせる。あちこちから声が届き、神秘的な空間が醸成される。遠くから響く声に耳を澄ました時の感覚は実に不思議なものだった。

 話は変わり、先日『ロボコップ』で有名なポール・ヴァーホーヴェンに関する文章を読んだ。彼はキリスト教をヨーロッパの暴力性の源とみなし、徹底的に弾劾する。キリスト教は時の権力者の都合の良いように解釈され、神の名のもとに多くの殺戮が正当化されてきた。十字軍や異端審問など、数えきれないだろう。そういうヨーロッパ文化の偽善を、ヴァーホーヴェンは作品の中で笑い飛ばし、映画で神なき世界を描き出す。『ロボコップ』も一見すれば単なるロボットもののヒーロー映画だけれども、ヴァーホーヴェンはあちこちにキリスト教のモチーフを散りばめている。
 
 確かにヴァーホーヴェンの言うように、キリスト教はそういう側面もある宗教だ。だけど、アレグリのミゼレーレのような至高の音楽を生み出す源泉にもなったのだ。この崇高な音楽は、穢れきったものからは生まれなかったはずだ。そう考えれば、キリスト教も捨てたもんじゃないだろう。

 高村薫が何を考えていたか知る由もないが、この音楽には聴き手の内面を触発する何かがあるように思う。音楽、宗教、文学、様々な世界の奥深さに、この音楽をきくたびに思いを馳せる。

 と、まぁ、久々にアレグリのミゼレーレをきいて思ったことを書こうと思いましたが、尻切れとんぼで終わってしまいました。これ以上書くとちょっと恥ずかしい。良い曲ですよ。ぜひきいてみてください。