Symphonies No.3 & 4/F. Mendelssohn

¥1,392
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バーンスタインの余韻が覚めない中、またもや素晴らしいCDと出会うことができた。先日紹介したEMIのSACDシリーズのクレンペラーによるメンデルスゾーンとシューマンの交響曲集である。

 このクレンペラーのメンデルスゾーンの交響曲第三番と四番は、名盤特集が組まれれば必ず上位に来る大変有名な演奏だ。メンデルスゾーン好きの僕としてはチェックしておきたかったけれど、聴くのはこのSACDが初めてとなる。

 まず気になる録音だが、SACDらしく情報量が豊かだ。ワイドレンジが広く奥行きがあり、響きに艶がある。若干分離が明瞭なところが気になるくらいだ。特に弦楽器の美しさの再現は見事で、クレンペラーの音か録音マジックなのか訝しがりたくなってしまう。こういうSACDの実力を目の当たりにすると、CDに戻れなくなっちゃうんだよなぁ・・・

 演奏に話を戻そう。僕にとってクレンペラーはよくわからない指揮者だった。単純に持っているCDが少ないせいもあったが、掴みどころがないのだ。一般的には巨匠としてスケールの大きい演奏をする指揮者という評価が定着している思えるが、彼の演奏、特にマーラーはそれを裏切る。むしろ素っ気なく、同時代に活躍したフルトヴェングラーやワルターのような強烈な個性も感じない。音は冷たく、盛り上がりはあと一歩物足りない。一般的イメージと自分の所感との乖離にもどかしい思いをしていた。

 しかし、この演奏で僕のクレンペラー感はようやく固まったように思う。特にシューマンの4番を聴いてそう思った。アンサンブルは水晶のごとく澄み渡り、端正だ。しかし一方、恐ろしく醒めている。音と内容が全くかみ合ってないのだ。しかしそれがクレンペラーの良さであることに、ようやく気づくことができた。クレンペラーは聴衆のカタルシスなど気にもかけていない。全体の物語性を真っ向から否定し、部分部分の美しさを追求している。彼にかかれば、全ての曲想が平均化されてしまうのだ。彼は冷徹なマッドサイエンティストのように、無表情に、自らの感性に従って音楽をぶった切る。

 クレンペラーが通好みの指揮者である所以はそこにあるのだろう。多くの演奏に接する者だからこそ、クレンペラーの作り出す音のすごさがわかる。それはつまらない演奏と紙一重であるがゆえに、当たり外れが多かった。オーケストラを完璧に鳴らし続かなければ、彼の音楽は持たないのである。彼の人生が怪我や病気など不幸に度々見舞われたように、彼の指揮スタイルはギャンブルのように危険と隣合わせだったのだ。僕はクレンペラーこそ、わかる人だけわかる、esotericな指揮者であると思う。

 こうして筋道をたてると、彼の演奏が驚くほどおもしろいことに気がつく。こんな特異な指揮者がいたのかと、変人が大好きな自分は狂気乱舞してしまうのだ。吉田秀和も指摘しているが、彼はフルトヴェングラーのようなロマン主義にもトスカニーニのような原典至上主義にも属さない、指揮者史から完全に逸脱した独自の世界観を持つ指揮者だ。だからこそ、クレンペラーは最近になって急速に復権を遂げているのである。彼は時代に制約されることのない、ある意味普遍性を持つ指揮者なのだ。