✴狸個人の実体験の感想なので独断と偏見に満ちて誇張していますが何かをディスりたいわけではありません✴


人は歳を重ねると固定観念が強固になる。ふいにそこから外れると混乱したり、人によっては怒ったり文句を言ったりする。はたまた絶望したり、素直に受け入れられず周りを変えようとする人も居る。固定観念は抱石ではなく、放り出すことも出来ると知ることは大切だ。


狸は高校を卒業と同時に香川から上京し、その後約30年を東京都下で過ごした。高校を出てすぐ上京したので、車の免許は取らずに完全な徒歩民として出来上がる。上京当時は地元に帰るつもりがなかったのだけど、色々な状況が重なり約一年前に姫路市という中核市にJターンすることになった。


海を挟んで地元の隣県なので文化や県民性の違い等についてはそこまで変わらないだろうとあまり心配はしていなかった。同じ日本だし、なんならもともと瀬戸内出身だもの。全然違う文化圏に行くわけではなく、せいぜいマックがマクドだったり、エスカレーターで立ち止まるのが右か左かと言うことくらいで、そんなに面食らうことはないと思っていたのだけど、それはちょっと甘い考えだった。


まず引っ越した先が完全な車社会だということ。今思うと当然なのだけど、車を使う使わないという事だけではない。規模の大小、種類の多少とかそういうものでもなく、生活圏の縮尺と構造がそもそも違うのだ。


都会の消費活動の多くは駅周辺にコンパクトに集約される。めぼしいショップはこぞって駅近に店を構えてくれるので駅周辺を押さえればまず不自由しない。地方は車社会だと分かっているはずなのに、なんの疑問も持たずここの感覚を書き換えられないまま新生活を始めた。

そして、いざ大きい駅に出てみても欲しいものが揃わない。ありそうなのに無い、上澄みをすくったような感じで混乱した。また、店の渡り歩きも容易ではない。


考えてみれば、そりゃそうだ。車社会なのだから駅周辺が最強なわけないし、距離感も車基準での遠近だ。店としては利用者の少ない駅近くに陣取る意味は薄く、むしろ大きな駐車場があるのがマストなので土地に余裕のある郊外が都合が良い。

完全な車社会とは、徒歩民は基本的に存在しない世界線であり忘れられた社会的弱者になる。

ネットショップがなければ、狸は途方に暮れて現地に馴染む前に干からびていたことだろう。インターネット万歳。


また、地域や程度によるが、地方では目的もなく外を徒歩でふらつくのは、ただ体力を消耗する自殺行為に等しく、変な奴もしくは物好きな奴だと思われる。なにせ目と鼻の先のスーパーに歩いていくと言ったら驚かれる。こちらが、え?と思う距離でも車を使うのが一般的なのだ。生活圏の縮尺もおかしいが、歩いてもいいと思う距離の感覚もかなり違う。散策は日常には存在せず、移動は移動でしかないのだ。そもそも徒歩の機動力で散策しても偶然何かに出会えるような密度がない。むしろ季節によっては何もなさすぎて遭難するまである。コンビニ密度も薄く自販機が生命線になるので小銭は必携。散策好きだった狸も外出の概念は根底から変わった。犬を飼っていなければ完全に引きこもりになるところだ。


もともと瀬戸内の港町で育ち、まぁまぁな田舎を知っていると思っていた。都会と地方と両方を見て触れてその差も頭では分かっていたつもりだった。まさか自分の感覚がこんなにも地方の現実と噛み合っていないとは思っていなかった。狸はずっと田舎の子だと思っていたけれど、気付かないうちに十分都会に染まっていた。


こうなると、もうこれは似たような世界観のパラレルワールドに迷い込んだ、もしくは最近流行りの異世界転生に見舞われたと思う方が切り替えやすい。まさか元の世界はこうだったのにこんなのおかしい、などと文句を吐こうとは思わない。もし、異世界に迷い込んだらきっと生き残るために必死に観察してその世界観や概念を把握し、その世界と住人に上手く対応していこうと思うだろう。


歳を重ねてからの固定観念の書き換えは容易ではない。さらに波及先も書き換えるとなると結構なカロリー消費になってくるので、歳を取るほど今までの蓄積による出力に傾倒していく。新たな入力は体力がいるし大変なのだ。

いつ固定されて、その後更新されたのかもわからないような埃を被った固定観念に頼っていると、当然上手くいかないことも出てきてしまう。


今思うと上京した時も大変だったが、若かったし、大都会東京という別世界に来たという心持ちだったので自然と異世界妄想できていたように思う。

想像力は創造力、本当に偉大だ。社会的弱者に異世界転生してしまった狸は、この似て非なる世界をどう生き抜くのか?的な妄想をひとしきり楽しみ、何はなくとも機動力な為自転車はすぐに購入した。免許は今更多分取らないけどね。