哲学の道の石畳と意識の並行性
鹿ヶ谷を流れる水路沿いを歩くのは、いかにも思索に耽る人間にふさわしい、静かな行楽であった。この哲学の道と名付けられた小径は、誰もが一度は「人生の真理」などという、詰まらない命題について考える場所である。だが、私がこの日、ここで考えていたのは、もっと切実で、そして現代的な、「意識の分裂」についてであった。
私の知人に、脳科学を専門とするキタムラ教授がいる。彼は、人類が「自己の意識」というものを、実は誤解しているという奇説を唱えている。彼は、この哲学の道の一角に、妙に古い石灯籠を据え付け、奇妙な計測を続けていた。
「君、見てください。この石灯籠です」
教授は、石灯籠の真横に置かれた、精巧なセンサーの計測結果を指さした。彼の顔は、この数週間の実験で、痩せ衰えている。
「この灯籠を通過した人間の脳波をサンプリングした結果、驚くべき事実が判明した。特定の人物がこの場所を通過する際、その意識の周波数スペクトルが、一瞬だけ二重に記録されるのです」
「二重、とは?」私が尋ねる。
「まるで、同じ人間が、一歩ずつズレた時間軸で、同時にこの場所を歩いているかのようだ。つまり、君が歩く一秒前の君と、一秒後の君が、この場所では意識の波動として並行して存在している。この石灯籠の古い岩盤が、ある種の『意識の遅延装置』として作用しているとしか考えられん」
教授の説は、私の理解を遥かに超えていた。彼の言うには、人間が考える「一本の意識の流れ」というものは幻想であり、実際には常に無数の選択と可能性の分岐点で意識の分裂が起きている。そして、この哲学の道の石畳は、その「並行した意識の波」を、一時的に可視化させているというのだ。
「しかし、その二重の意識が、互いに干渉し合うことはないのかね?」
「今のところは、ありません。しかし、もしこの二重の意識が互いに『認識』し合ってしまったら? 人間は、『自分が下さなかった選択』の記憶を、同時に抱えることになる。それは、人生の不条理を、最も直接的な形で突きつけられることだ」
私は思わず、自分の足元を見た。この石畳のどこかに、私が選び取らなかった別の人生の残滓が、微かな波動として漂っているのかもしれない。それは、恐ろしいというより、むしろ、人生の滑稽さを際立たせる事実のように思えた。
教授は、疲れた表情で、灯籠に手を置いた。
「そして、この現象が、この京都の街全体に広がっているのではないか、というのが、私の真の懸念です。この街の人間は、皆、無意識のうちに『自分ではない自分の人生』を常に背負っているのかもしれない。それは、我々が認識する以上に、京の都の空気を重く、複雑にしている要因なのかもしれんな」
私は彼の研究への敬意を示す代わりに、何も言わず、ただ哲学の道をそのまま歩き続けた。
そして、ふと立ち止まり、後ろを振り返った。誰もいない。
だが、私は、数秒前の私がこの場所で立ち止まった時の「後悔」のような、言いようのないかすかな感情の残滓を感じた気がした。それは、この現実の「私」が、あえて避けて通った、もう一つの「可能性」の気配であったのかもしれない。
私は、この不条理な「意識の並行性」を、これ以上深く詮索するのはやめることにした。人生も哲学も、すべてが解き明かされぬからこそ、幾らかは、面白味があるというものだ。私は、ただ、自分の選んだ一本の道を、粛々と歩き続けることにした。
(終)