昨日は、地元・立川で、全国のトップを切って党員サポーター集会を開催しました。応援に駆けつけてくれた渡部恒三国対委員長の「黄門節」を200人余の参加者が堪能しました。

渡部国対委員長が最初に触れた話題は、一昨日の日本経済新聞スクープ記事でした。私からも、最近読んで感銘を受けた二つの本を紹介しながら、この点について少し詳しくお話させていただきました。

一つは、猪瀬直樹著『日本はなぜ戦争をしたか―昭和16年夏の敗戦』
今一つは、松本健一著『日本の失敗』

前者は、4年後の敗戦をズバリ予測した昭和16年夏の「模擬内閣」の経緯を生々しく描いたもの。後者は、中国ナショナリズムの深みにはまりながら米英との無謀な戦争に突入していった軌跡を「対華21ヶ条要求」にまで遡りながら解き明かしています。戦前は全部ダメだという「自虐」史観でもなく、全て正しかったんだと開き直る「自慢」史観でもなく、真摯に歴史を振り返るにはお薦めの良書だと思います。

さて、日経スクープに話を戻します。1975年11月の例大祭を最後に途絶えてしまった昭和天皇の御親拝の謎をめぐっては、これまで諸説がありました。三木首相が公式参拝を否定して「私的参拝」などと言ったからだ、という有力な解釈もありましたが、最後の御親拝が三木「私的」参拝の3ヵ月後だったという事実との整合性がとれていませんでした。

私自身は、件の「富田宮内庁長官メモ」にもあった筑波藤麿宮司のA級戦犯合祀保留の判断の意味するところが重大だと常々感じておりましたから、今回明らかになった事実は、[※]その筑波宮司の判断を裏打ちするものとなったと感じました。念のため付言すると、宮司の判断には中国や韓国の意向などといった主体性のない配慮は微塵もありませんでした。[※ご指摘いただいた通り「メモ内容の真贋」についての記述は不要でしたので削除しました。修正@2006-07-22 16:00]

勝者が敗者を「事後法」で裁くという極東軍事裁判の不当性については、改めて論ずる必要もないですが、戦場における違法行為を裁いたBC級戦犯をめぐる判決と「戦争指導者」(戦争を遂行した国家指導者という意味で、軍人、文民を問わず)に対する裁きとは大きく次元を異にすると思います。後者については、日本があの無謀な戦争に突入していった過程を考えれば、日本人自身できちんと総括しなければならない問題だと思っておりました。それを、連合国によって外部的な圧力とごく短期間の「検証」によって先に裁かれ、我が国としてその判決を受諾せざるを得ない立場に追い込まれてしまったことは、まさしく敗戦の帰結とはいえ、誠に残念なことです。

独立回復後も、政治家はこの種の議論から距離を置いてきたというのが偽らざるところだと思います。今回のスクープ記事は、自民党総裁選との関連でいろいろ憶測を呼んでいますが、戦後60年を超えて、私たち自身がそろそろ静かに振り返って総括すべき問題なのではないかと思うのです。私は、とくに満州事変以降の国家指導者たちの戦争責任は重大であって、そういう指導者たちの政治決断によって戦地に赴き尊い命を落とされた軍人・軍属の方々をお祀りする靖国神社に一緒に祀るというのは、やはり抵抗感を拭えません。このことは、生前祖父や大叔父から何度となく聞かされた私の偏見かもしれませんが・・・。

だから新しい追悼施設を、という議論に与するつもりは毛頭ありません。要は、天皇陛下をはじめ誰もがわだかまりなく参拝し、国のために命を懸けられた英霊の皆さまに哀悼の誠を捧げることのできる靖国神社となるよう、関係者の皆さまが英知を結集していただきたいと切に願うものです。もちろん、政教分離の憲法原則がありますから、政治が露骨に介入することはできませんが、たとえば、20年前に当時の中曽根総理と板垣征四郎陸軍大将(A級戦犯)のご子息・板垣正参議院議員が尽力したような方策を真剣に追求すべきではないでしょうか。