沖縄復帰40年に思うー(1) | 『改国救世』サイトより

沖縄復帰40年に思うー(1)

     沖縄復帰40年に思うー(1)


 沖縄復帰及び40周年の経緯と

       佐藤栄作総理の決意


■今から(2012年)の40年前:1972年5月15日沖縄が日本に返還された。戦後27年の歳月が経過していたのである。佐藤栄作内閣の執念を賭けた戦いの結果でもあった。佐藤栄作総理の兄貴の:岸信介氏は憲法改正がなされなければ戦後は終わっていない。合わせて、片務条約の「日米安保条約の改定」が急務であった。不平等・片務条約である、旧:日米安保条約(1952年吉田内閣・サンフランシスコ講和条約に連動して締約された第一次日米安保条約)は、占領下の日本の独立以後も、占領下と同様に在日米軍・駐留軍が日本の安全保障の名目で「駐留在日米軍」として、正規の合法的な「駐留在日米軍」として日本全土にに駐留できる事の契約である事。


★日本は独立したとしても、自衛のための国防軍もない日本であり、非武装中立的な憲法第9条・(戦争放棄・戦力の放棄・交戦権の放棄)・が存在する為に、極東米軍・在日米軍の駐留を希望せざるを得なかったのである。隣の朝鮮半島では、朝鮮戦争が1950年6.25に勃発(1953年休戦協定締結・現在も休戦中)して戦乱の渦中に置かれた日本でもあった。


■1957年に成立した岸内閣はこの占領末期に突如締約された、第一次・「日米安全保障不平等条約・日米片務条約」をより独立国家間の条約にふさわしく対等な一般国家間の条約に改定する事が、占領下で米軍GHQ主体で作られた「占領憲法の解廃と自主憲法制定」と並ぶ国家緊急の課題であるとの認識で、「日米安保条約の改定」に政治生命を賭けたのであった。合わせて自民党・岸内閣は自主憲法制定を最大の国家目標に掲げたのであった。まさに世界は米ソ東西冷戦の極致に置かれていたが、隣国朝鮮半島は休戦協定下であっても李承晩、張勉内閣、朴正煕内閣のクーデター政権登場の前夜の中であった。改訂日米安保の中核条項は第5条の共同防衛の条項であり、少なくとも米軍の日本防衛の義務化が銘記されたのである。第6条の基地貸与の日本の義務も銘記された。


★岸内閣の後を継承した池田内閣は「所得倍増論」で国民所得の倍増・高度経済成長への布石を打ち、やがて日本の神武景気等の好景気をもたらした。


■池田内閣の後を継承した、佐藤内閣は兄貴の岸信介内閣のように「沖縄返還無くして日本の戦後は終わらない」との主張を内閣最大の課題に掲げて長期政権を以て沖縄返還に取り組んだのである。★1960年代中期の米国は・ケネディー政権→ジョンソン政権→ニクソン政権下で三代の長期に渡ったベトナム戦争の渦中の出来事であり、沖縄の嘉手納基地始め在沖米軍は沖縄から戦場の地であるベトナムへと出陣している渦中の出来事であった。(べェトナム戦争終結は1975年4月30日サイゴン陥落により終結)。


★ 沖縄国会は自民党の約半数の議席を持っていた社会党の総攻撃でもあった。日本の新聞は朝日新聞始め反米の論調が強く社会党、総評(組合員450万人)、日教組、共産党、及び進歩的左翼リベラル文化人等が沖縄返還交渉に対して、反米の立場から日米安保条約を再度攻撃し及び沖縄米軍基地の存在を否定する為に、マスコミ、左翼政党、左翼的組合(含む・日教組)、進歩的文化人の日本の左翼四人組みが佐藤内閣を攻撃した。


★沖縄返還交渉はまさに日米安保反対闘争であり、在沖米軍反対闘争であった。改訂:日米安保条約は第5条で共同防衛を、第6条で基地の許可・基地の使用権利が約束されているのである。沖縄返還交渉の日本国会及び国内世論の戦いは、1960年「岸内閣の日米安保条約締結交渉」の再現が「1970年の日米安保改定闘争」と連動した内戦状況の中での佐藤栄作内閣の戦いであった。


★佐藤首相の引退会見で佐藤総理は「私はマスコミ・新聞が嫌いだ!我が意図と異なる視点からの報道をされつづけた。テレビ、テレビ、最後なので、私はテレビで国民に直接話したい。新聞はみな出て行ってくれ!」と叫んだのである。


■沖縄返還交渉は1960年、1970年と合わせた「日米安保破棄闘争」の延長戦でもあったのである。大きな思想戦であり、米国を中心にした日本の自由陣営の選択か、安保破棄でのソ連・中華人民共和国等の社会主義への選択かの決断が、1950年の講和独立闘争をはじめとした沖縄復帰までの戦後史の流れでもあった。


★佐藤内閣は、「核抜き本土並み」「非核三原則」を打ち出し、日米安保反対勢力に対抗して修羅場を乗り切って「沖縄返還交渉」勝利!の結果を出したのが1972年5月15日であります。沖縄返還の翌日、佐藤栄作は、兄貴・岸信介総理が安保改定の日に「内閣総辞職・引責」を宣言されたように、沖縄返還実現の日に沖縄に政治生命を賭けて奮闘して来た、佐藤栄作内閣は総辞職された。田中角栄内閣が以後の政権を継承し、彼は日中国交回復へと舵を切ったのである。


■沖縄の在日米軍の課題、日米安保条約の中心課題は、極東の平和と安全に寄与することであり、この事が日本の安全保障の核心であるとの日米の政府間合意が基本であった。日米首脳会談では何時も「朝鮮半島の平和と安全は日本の平和と安全に緊要である」との日米首脳間の共同声明が発せられて、文章化されたのである。あたかも日米安保条約と沖縄在日米軍基地が韓半島:38度線の平和と安全の為に存在しているかの様相が強かったが、今も同じ事ではあるかと思う。また言外に極東の平和と安全の文言・条約文章の意味する内容は台湾海峡・台湾の平和と安全の維持も日米安保条約及び沖縄在日米軍基地の役割である事は明白である。


■1996年戦後50周年を期して、当時の橋本竜太郎首相と米国クリントン大統領により「日米安保新宣言」がなされ、日米安保条約の使命・課題が「アジア・太平洋地域:環太平洋地域の平和と安全に貢献」することが再宣言されたたのである。当時は湾岸戦争が1991年に始まり、国連の多国籍軍が中東にてイラクのクエーと侵略に正義の戦いを展開した後の転換期であった。東西冷戦がソ連消滅で終焉したこともあって、米軍の再編と条の戦略整備の期間でもあった。


■この1996年4月17日に、普天間基地の「沖縄本島内の別の米軍基地」内への移転が約束されたのである。移設の期間のメドは5年~7年であった。その後にSACO合意によってキャンプシュアブ・名護市辺野古崎に移転が決定されたのである。


★1996年から10年後の2006年5月に新たに「日米政府間合意」の契約が成り立ち、名護市辺野古崎が普天間基地の移転先に正式に合意されたのである。米国側は、ライス国務長官:ラムズフェルド国防長官、日本側は、麻生外務大臣:額賀防衛庁長官であった。