セミから学んだ「いのちの泉」

 

この夏、窓が大きく外が見える喫茶店でコーヒーを飲んでいると、目の前にセミが落ちてきました。セミなりに年老いたのでしょうか、地面に落ちて、羽が下になった姿勢になっています。

どうなるかと思って見ていると、セミは、必死に起き上がろうともがきます。繰り返し繰り返し、起き上がろうと全身で試みています。疲れて、しばらく休むと、また必死に起き上がろうとします。

結局、カラスがそのセミを見つけ、つまんで飛び去っていきました。カラスに食べられてしまうのでしょうが、私はこのセミの姿を見て、感動していました。そのセミは、年老いて、死期が近いのだと思いますが、「起き上がろうとする心」は、本当に活き活きとして、力がみなぎっていました。セミから、「お前は、人生をぐうたらに生きて、せっかくの命を無駄にしているのではないか?」と問いかけられているように感じました。

それからしばらくして、8月7日に、長野県飯山市に出かけたのですが、そこで歩道を歩いていると、セミが仰向けに転がっていました。これでは人に踏まれてしまうと思い、私は、横に転がっていた木の枝で、セミを端にどかそうとしました。すると、そのセミは、ほとんど死にかけで、小さな声で「ジ」と鳴けるくらいでしたが、まだ生きていました。そして、仰向けの姿勢から、パッと六本足で立ち上がる姿勢になったのです。羽を見ると、少しちぎれていて、二度と飛べないセミでした。飛ぶこともできず、ほとんど鳴くこともできないセミでも、その立った(坐った)姿勢は実に立派です。私は感動しました。

逆にセミから、「お前は、『坐る』姿勢を探求しているそうだが、お前の姿勢はセミの活きた姿勢に全く及ばないのではないか」と問いかけられているように感じました。セミの生きる姿勢に較べると、私自身を含め多くの人間は、生きる上で最も大切なことを忘れて暮らしているように思えました。

このセミからの問いかけを、以前、何かで読んだような気がしました。それはドストエスフキー著の『白痴』という小説の一節でした。その小説に、イッポリートという名前の、結核にかかり、あと二週間くらいで死ぬと医者に言われている18歳の青年が登場します。彼は自殺を決意し、遺書のような文書をしたため、仲間の前で朗読します。その文書の一節で、ブンブンと鳴いて飛んでいる一匹のハエでさえ、「宇宙の宴(うたげ)にあずかる一人」であり、自分の持ち場を知り、それを愛して、幸せでいるのに、自分一人だけは「死産児(のけ者)」のようだ、と書いています。そして「生命(いのち)の泉」の象徴である太陽を見ながら、「生命の泉をまっすぐに見つめながら死んでいこう」と言って、ピストル自殺を図ります(結果は自殺未遂に終わり、結局、結核で数週間後に亡くなります)。

私たちは、今現に生きているわけですし、決して「死産児(のけ者)」ではありません。ハエやセミが「宇宙の宴」にあずかっているように、私たち一人一人も「宇宙の宴にあずかる一人」です。そしてハエやセミと共に、「生命の泉」の恩恵を現に受けているわけですし、いのちの泉をまっすぐに見つめながら、その泉から湧き出る水を現に頂戴しながら生きていけるはずです。

ですが、自分の頭の中で作り上げたちっぽけな考えで自分を縛ってしまい、自ら「死んだ人間」のようになって生きている場合が多いように、私自身を振り返って、そう思います。ハエもセミも、「お前もいのちの泉、宇宙の宴にあずかる一人だよ」と叱り、励ましてくれています。どうか、自分で作った枠・縛りの中に閉じこもり、いのちの泉から自らのけ者になっているあり方を打ち破って、ハエやセミや人間や、生きとし生けるすべてのものと共に、いのちの泉をまっすぐに見つめながら生きていければと切に願っています。

 

 

 

天正寺住職 佐々木奘堂