フューチャーモデルズの思い出
心にあることは色あせないけど、
心は誰にも見えないので書いておこうと思います。
前にも書いた気がしますが、記憶が曖昧で話が前後してる気もしますし、
あと色々はしょってます。
小学校三年生の頃、近藤和久先生の水彩タッチなガンダムや
小林誠先生の描きこまれたアレンジもビルスーツが好きで、
Bクラブのバックナンバーやホビージャパンを買い始めた。
そのうち韮沢先生、高柳先生、竹谷先生、寺田先生の作品に出会い、
貯金に貯金を重ねて産まれて初めて1万円を超えるもの、
いやいや、2万円近いものを自分で買った。

とにかくイエローサブマリン横浜店に、
「マンクリサリス」を捜し求め、
地図だけを頼りに彷徨い歩いた。
歩けど歩けど見つからず、
足の皮が剥けてなみだ目になりながらもたどり着き、
出会ったホッパーを見つけ箱を開けてこの手が出てきたときに

もう自分の人生は決まった!と思った。
この写真じゃちょっとよくわからないけど笑
これを共有できる仲間にめぐり合うのが
まさか15年も後だとは思いもよらなかったけど。
その後、金を貯めてはイエサブに通ったけど、
お目当てのマンクリサリスは見つからなかった。
そんなこんなで、ホビージャパンの特集と、
白黒のページにのっている小さなフューチャーモデルズの広告が
楽しみで楽しみでたまらなかった。
世の中はセーラームーン等
今で言う萌えの足音が聞こえ始めていた頃、
韮沢先生の「ファントムコア」サイン会が
フューチャーモデルズであると聞き、
父親に連れて行ってもらった。
初めて行ったクリーチャー専門のガレージキットショップは
凝縮のされた宇宙のようで、
そこにある物を全て買って帰りたいくらいだった。
所持金は5000円くらいしかなかったけど。
そこで初めて韮沢先生を生で見た。
後で先生にその話をしたら全く覚えていないとおっしゃっていたけど、
そりゃ何万人もサインしてきている人だから当たり前だ笑
でも自分には小学生の身分で韮沢先生の初単行本にサインしてもらった事が
ずっと誇りに思えるほど、感動する出来事だった。
そして、フューチャーモデルズなんてオシャレなお店に行けた事も。
その頃 スーフェスにも行った。イベント入場デビューはスーフェスだった。
今は玩具が多いイベントになってるけど、当時はちょっと違った。
フューチャーの展示をはじめ、
海外ガレージキット、クリーチャーガレージキット乱立はもちろんのこと、
動物の標本や骸骨、死骸のキット、パンクな小物、
気持ち悪いカツラやマネキン等むちゃくちゃアングラ色が強かった。
ちょっと子供はきちゃいけないようなところの気がしてたけど
でも、子供なのにそこにいるそんな自分が嬉しかった。
フューチャーブースでキット買うと小さいオマケが付いてくるので、
頑張って買った。所持金は2万円くらいだったかな。
金が足りなくてあまりねだらない自分が父親にねだったのも覚えてる。
SMHというアート色の濃い季刊誌が出始めた頃、自分は海外にいた。
海外ではスポーンフィギュアが主流になり始めていた。
スポーンに最初はそんなに興味がなかったが、
海外ではどこにいってもスポーンのフィギュアが売っており、
ガレージキットを売っている店が遠すぎていけなかかったので
マンガスポーンあたりからガレキの代用品として買いはじめた。
そのうち、
ムービーマニアックスというホラー映画のキャラクターを
玩具化する自分にとっては夢のようなフィギュアが販売された。
ジェイソン、フレディ、レザーフェイス、買いまくって
遊びまくった。そのうちうまいことスポーンにも洗脳されていた。
日本でも海洋堂のタイガーマスクやら北斗の拳やら、
ブリスターブームになって行ったらしい。
近所のアメコミSHOPでフューチャーモデルズの
デビルマンブリスターが販売して、アメリカの片田舎で
フューチャーに出会えてすごい感動した。
父親が送ってくれるHJには「SIC」の記事があり、
遂に竹谷先生はバンダイと組んで世にでた!
と当時は感動した。
海外から日本に電話してSICを輸出できないかと
聞いたらあっさり断られたのも覚えてる。
日本に帰ってくるとブリスターブーム最前線だった。
その所為かクリーチャー、海外ガレージキットの勢いは
若干衰えていたような気がした。SMHも休刊になった。
しかしフューチャーSHOPは1階がプラネットX、
2階がフューチャーSHOPのビルに移転していて、
とんでもない量の作例が飾られていた。
まさに博物館!大感動、夢の世界がまだあった。
2ヶ月に1回、 仕事の給料が出る度に地図を持たず車で東京に行き、
フューチャーSHOPにたどり着ければ1体ガレージキットを
購入して帰るというのが自分の楽しみだった。
竹谷ハカイダー、ローカストカジモド、ボルトステイン2、ギルステイン・・・
しばらくするとフューチャーのお店はまた移転して
自社ビルになった。ここでも展示が沢山あった。
その頃フューチャーから定期的に送られてくるチラシが
独自のマンガ評だったりキット紹介があったりして
すっごい面白かったのでまだとってある。
世では、イエローサブマリンがだんだんフィギュアを扱わないようになり、
レッズがなくなったり、ホビットというかなり大きなSHOPもなくなる
衰退がおきていた。
フューチャーも、ホッパーの再販や馬に乗ったプレデター、でかいエイリアンのキットや
バスト以降、ガレージキットの販売が
殆ど無くなっていった。
ホビージャパンでは海外ガレージキットの紹介は殆ど消え、
お店でキットはまず見かけない、むしろ見つける事が困難になっていった。
そして遂にフューチャーモデルズのSHOPが閉店の時が来た。
ずっと夢や喜びを与えてくれてきた店が
なくなってしまうのは寂しすぎたから、最後の日は行きたくなかったけど
せめていつもお世話になっていた店長さんに挨拶に行こうと
思って行くことにした。
が、いなかったのですぐ帰った。
それで最後だと思った。
数年後の今、フューチャーモデルズのガレージキットは復活した!
新聞紙で包まれて、当時の箱の雰囲気の使用で!
抜きはめっちゃ綺麗になったけど笑
手放しに喜んでしまっているけど、
玩具がメインの大きな企業まで発展したアートストームが、
ガレージキットをやるメリットは
どの程度なのかと思ってしまう。
詳しい事情はわからないけど。
それでも続けてくれていることには、本当に感謝としか言いようがない。
生きてきて30年余年になるけど、
クリーチャーガレージキットで語れる人間は
本当に少数。というか知っている人間にまず出会わない。
友達とも話が合わず色物扱いされるので
昔はもっと広まってくれと思ってたけど、
今はそれで全然かまわない。
たまに会うクリーチャー好きと語るのがなにより楽しいし、
ネットで見つける
他に集めている人のブログを読むのがむちゃくちゃ楽しい!
そうそう!そうなんだよ!とか、
すげーなるほど!そういう見方もあるのか!とか、
知らなかったー!とか。
そんな少数派(なんか失礼だったらすいません)に対して、
フューチャーモデルズは今でも同じスタンスでガレージキットを
続けてくれている。
こればかりは、子供の頃から
本当に生きてて良かったと思えることの1つだから、
これからも感謝し続けて生きてきます。
おしまい
心は誰にも見えないので書いておこうと思います。
前にも書いた気がしますが、記憶が曖昧で話が前後してる気もしますし、
あと色々はしょってます。
小学校三年生の頃、近藤和久先生の水彩タッチなガンダムや
小林誠先生の描きこまれたアレンジもビルスーツが好きで、
Bクラブのバックナンバーやホビージャパンを買い始めた。
そのうち韮沢先生、高柳先生、竹谷先生、寺田先生の作品に出会い、
貯金に貯金を重ねて産まれて初めて1万円を超えるもの、
いやいや、2万円近いものを自分で買った。

とにかくイエローサブマリン横浜店に、
「マンクリサリス」を捜し求め、
地図だけを頼りに彷徨い歩いた。
歩けど歩けど見つからず、
足の皮が剥けてなみだ目になりながらもたどり着き、
出会ったホッパーを見つけ箱を開けてこの手が出てきたときに

もう自分の人生は決まった!と思った。
この写真じゃちょっとよくわからないけど笑
これを共有できる仲間にめぐり合うのが
まさか15年も後だとは思いもよらなかったけど。
その後、金を貯めてはイエサブに通ったけど、
お目当てのマンクリサリスは見つからなかった。
そんなこんなで、ホビージャパンの特集と、
白黒のページにのっている小さなフューチャーモデルズの広告が
楽しみで楽しみでたまらなかった。
世の中はセーラームーン等
今で言う萌えの足音が聞こえ始めていた頃、
韮沢先生の「ファントムコア」サイン会が
フューチャーモデルズであると聞き、
父親に連れて行ってもらった。
初めて行ったクリーチャー専門のガレージキットショップは
凝縮のされた宇宙のようで、
そこにある物を全て買って帰りたいくらいだった。
所持金は5000円くらいしかなかったけど。
そこで初めて韮沢先生を生で見た。
後で先生にその話をしたら全く覚えていないとおっしゃっていたけど、
そりゃ何万人もサインしてきている人だから当たり前だ笑
でも自分には小学生の身分で韮沢先生の初単行本にサインしてもらった事が
ずっと誇りに思えるほど、感動する出来事だった。
そして、フューチャーモデルズなんてオシャレなお店に行けた事も。
その頃 スーフェスにも行った。イベント入場デビューはスーフェスだった。
今は玩具が多いイベントになってるけど、当時はちょっと違った。
フューチャーの展示をはじめ、
海外ガレージキット、クリーチャーガレージキット乱立はもちろんのこと、
動物の標本や骸骨、死骸のキット、パンクな小物、
気持ち悪いカツラやマネキン等むちゃくちゃアングラ色が強かった。
ちょっと子供はきちゃいけないようなところの気がしてたけど
でも、子供なのにそこにいるそんな自分が嬉しかった。
フューチャーブースでキット買うと小さいオマケが付いてくるので、
頑張って買った。所持金は2万円くらいだったかな。
金が足りなくてあまりねだらない自分が父親にねだったのも覚えてる。
SMHというアート色の濃い季刊誌が出始めた頃、自分は海外にいた。
海外ではスポーンフィギュアが主流になり始めていた。
スポーンに最初はそんなに興味がなかったが、
海外ではどこにいってもスポーンのフィギュアが売っており、
ガレージキットを売っている店が遠すぎていけなかかったので
マンガスポーンあたりからガレキの代用品として買いはじめた。
そのうち、
ムービーマニアックスというホラー映画のキャラクターを
玩具化する自分にとっては夢のようなフィギュアが販売された。
ジェイソン、フレディ、レザーフェイス、買いまくって
遊びまくった。そのうちうまいことスポーンにも洗脳されていた。
日本でも海洋堂のタイガーマスクやら北斗の拳やら、
ブリスターブームになって行ったらしい。
近所のアメコミSHOPでフューチャーモデルズの
デビルマンブリスターが販売して、アメリカの片田舎で
フューチャーに出会えてすごい感動した。
父親が送ってくれるHJには「SIC」の記事があり、
遂に竹谷先生はバンダイと組んで世にでた!
と当時は感動した。
海外から日本に電話してSICを輸出できないかと
聞いたらあっさり断られたのも覚えてる。
日本に帰ってくるとブリスターブーム最前線だった。
その所為かクリーチャー、海外ガレージキットの勢いは
若干衰えていたような気がした。SMHも休刊になった。
しかしフューチャーSHOPは1階がプラネットX、
2階がフューチャーSHOPのビルに移転していて、
とんでもない量の作例が飾られていた。
まさに博物館!大感動、夢の世界がまだあった。
2ヶ月に1回、 仕事の給料が出る度に地図を持たず車で東京に行き、
フューチャーSHOPにたどり着ければ1体ガレージキットを
購入して帰るというのが自分の楽しみだった。
竹谷ハカイダー、ローカストカジモド、ボルトステイン2、ギルステイン・・・
しばらくするとフューチャーのお店はまた移転して
自社ビルになった。ここでも展示が沢山あった。
その頃フューチャーから定期的に送られてくるチラシが
独自のマンガ評だったりキット紹介があったりして
すっごい面白かったのでまだとってある。
世では、イエローサブマリンがだんだんフィギュアを扱わないようになり、
レッズがなくなったり、ホビットというかなり大きなSHOPもなくなる
衰退がおきていた。
フューチャーも、ホッパーの再販や馬に乗ったプレデター、でかいエイリアンのキットや
バスト以降、ガレージキットの販売が
殆ど無くなっていった。
ホビージャパンでは海外ガレージキットの紹介は殆ど消え、
お店でキットはまず見かけない、むしろ見つける事が困難になっていった。
そして遂にフューチャーモデルズのSHOPが閉店の時が来た。
ずっと夢や喜びを与えてくれてきた店が
なくなってしまうのは寂しすぎたから、最後の日は行きたくなかったけど
せめていつもお世話になっていた店長さんに挨拶に行こうと
思って行くことにした。
が、いなかったのですぐ帰った。
それで最後だと思った。
数年後の今、フューチャーモデルズのガレージキットは復活した!
新聞紙で包まれて、当時の箱の雰囲気の使用で!
抜きはめっちゃ綺麗になったけど笑
手放しに喜んでしまっているけど、
玩具がメインの大きな企業まで発展したアートストームが、
ガレージキットをやるメリットは
どの程度なのかと思ってしまう。
詳しい事情はわからないけど。
それでも続けてくれていることには、本当に感謝としか言いようがない。
生きてきて30年余年になるけど、
クリーチャーガレージキットで語れる人間は
本当に少数。というか知っている人間にまず出会わない。
友達とも話が合わず色物扱いされるので
昔はもっと広まってくれと思ってたけど、
今はそれで全然かまわない。
たまに会うクリーチャー好きと語るのがなにより楽しいし、
ネットで見つける
他に集めている人のブログを読むのがむちゃくちゃ楽しい!
そうそう!そうなんだよ!とか、
すげーなるほど!そういう見方もあるのか!とか、
知らなかったー!とか。
そんな少数派(なんか失礼だったらすいません)に対して、
フューチャーモデルズは今でも同じスタンスでガレージキットを
続けてくれている。
こればかりは、子供の頃から
本当に生きてて良かったと思えることの1つだから、
これからも感謝し続けて生きてきます。
おしまい