【明治・大正期書籍紹介】関野貞著『韓国建築調査報告』(7)総論4 | 流じゅーざの『日韓・朝韓』

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バンコク在住のじゅーざです。
 
本シリーズは、故関野貞(せきの・ただし)氏(1868~1935年)の『韓國建築調査報告』の現代語訳です。本書は、明治35年(1902年)に朝鮮の各地を訪問し、古建築や遺跡を調査し、報告としてまとめてもので、大韓帝国末期の宮殿、寺院や遺跡の写真や見取り図、詳細の観察報告が掲載されている貴重な史料です。原文は旧仮名遣いの古い文章ですのでここで現代語に訳したうえ、必要に応じて注釈を加えたいと思います。
 
『韓国建築調査報告』のまとめページはこちら↓↓↓
【明治・大正期書籍紹介】関野貞著『韓国建築調査報告』のまとめ&メニューページ(現在連載中)
 
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『韓国建築調査報告』
工科大学助教授 関野 貞
第一遍 総論(4.歴史の続き)
 

5.宗教
宗教が一国の建築そのほかの美術に大きい影響を与えることは古今東西皆そうであったと言える。韓国の宗教の主要なものは仏教と儒教(便宜上宗教の中に入れる)の二つで、特に繊維(ママ)風水の迷信が広く行われる。

 

(イ)仏教
高句麗の小獣林王(注1)3年(西暦373年、我が国の仁徳天皇61年)前秦王符堅(注2)が使者を遣わして、浮屠(仏僧の事)順道および仏像・経論を送って来た。これが仏教が韓の地に伝来した最初となる。その後12年で百済の近仇首王(注3)九年(383年)西域の僧摩羅難陀が百済に来たところ王が迎えて宮中に置いて大いにこの僧を敬った。後、三十四年で沙門墨胡子が高句麗から新羅の一善郡に至り、奇跡を起こして王や臣民の尊敬を得た。これが百済及び新羅に仏教が伝播した最初である。その後三国の王は大いにこれを信奉して盛んに堂塔を建立した。すなわち高句麗の広開土王(注4)は九寺を平壌に建て、栄留王(注5)の8年(625年)に使者を唐に送って仏教老荘の教えを学ばせた。また百済の聖王(注6)はその信仰が非常に厚く、使者を南朝の梁に遣わして涅槃経義及び工匠・書師などの派遣を要請して連れてきて初めて我が国に仏像経論を貢いできた。法王(注7)は即位した初めに命令を下して殺生を禁じ、鷹や鷂(はしたか)を放し、漁猟の道具を焼かせ、武王(注8)はその34年(634年)に王興寺(現大韓民国忠清南道扶余郡)を創建し、壮麗を極めた。それをもって仏教崇拝の盛んになったことはすでに見て来たとおりである。特に新羅では法興王(注9)の時代に仏教を興して、梁から仏舎利を送って来た時は百官総出でこれを奉迎させ、また王宮を捨て、皇龍寺(現大韓民国慶尚北道慶州市)を建てついに王妃と共に剃髪するにまでなった。以後、歴代の王は相次いで仏教を奨励し、工芸技術もまた合わせて発達を見た。新羅の三国統一後(668年)も仏教は依然としてその勢力を維持した。新羅の末年に異僧道詵という者がいて深く風水の術を極めていたがその『讖記』は朝鮮人が今日に至るまで崇拝するところで、開城京城への遷都は皆この本に基づいたものだと言われている。

 

(注1)高句麗の小獣林王-高句麗の17代王。在位371~384年。五胡十六国時代に中国王朝に朝貢をして国力を蓄えた。
(注2)前秦の符堅-五胡十六国の一つ氐族の前秦の王で一時華北を統一したが淝水の戦い(383年)で東晋軍に敗れ、統一は瓦解した。在位375~385年。仏教に帰依し、漢人の僧道安を用い、西域から名僧鳩摩羅什を中国に招聘しようとした。(実現は彼の死後)
(注3)百済の近仇首王-百済の第14代王。在位375~384年。王子時代の高句麗との戦争では平城まで進撃し、高句麗の故国原王を戦死させた。
(注4)高句麗の広開土王-好太王ともいう。高句麗19代の王。在位391年~412年)朝鮮半島南部にまで勢力を伸ばし、倭の軍と戦って勝利したことが「広開土王碑」に記録されている。
(注5)高句麗の栄留王-高句麗27代王。在位は618年~642年。高句麗末期の王で、淵蓋蘇文に殺され王位を奪われた。
(注6)百済の聖王-百済の26代王。在位は523年~554年。高句麗や新羅と対立し、新羅との戦争中に戦死した。
(注7)百済の法王-百済の29代王。在位599年~600年。仏教を深く信仰した王。
(注8)百済の武王-百済の30代王。在位600年~641年。百済末期の王。
(注9)新羅の法興王-新羅23代王。在位514年~540年。新羅で臣下の反対を押し切って仏教を導入した。

 

高麗(918年~1392年)の太祖(注10)はまた仏教を信奉し、その王位を得たのは仏法の加護によるものだとし、かつ国家の長久を図ろうとすると仏教に頼らなかったことはなかったほどである。八間会を行い、大いに仏教寺院を作った。その結果として仏教はますます隆盛となり光宗(注11)、文宗(注12)から毅宗(注13)に至って仏教が盛んになったこと古今無比と称された。しかしそのために弊害が百出し、僧侶の徒党が専横を極めて宮闕に出入りし、奢侈に限度が無く、国庫は空になり、風俗は乱れ、ついに国家の滅亡を見るまでに至った。

 

朝鮮の太祖李成桂(注14)が国家を建てるや深く前王朝での仏教が害毒を流したのに鑑みて、大いに儒教を奨励すると同時に仏教を抑圧し、太宗(注15)は禅教二宗の他の協議を厳禁し、文宗(注16)は僧侶が王城に出入りするのを禁止し、成宗(注17)は「度僧の法」を厳しくし、度牒の無い者は悉く還俗させ、寺刹の多くは空になったといわれている。その間、世宗(注18)・世祖(注19)などは多少仏教になきにしもあらずだったが、一般に抑制・排斥の方針を執ったので、新羅から高麗を通して隆盛を極めた寺院の大部分はほとんど悉く壊滅し、わずかに残ったものも多くは荒れ放題の極に達し、僧侶などは概ね無学、無知識で宗教の何たるかを解せず、荒廃した廃屋の下に無意味に経文を読むだけにすぎなくなり、その地位に至っては普通の人民の下に置かれて世間から度外視され、社会の教化と痛痒が相関するようで、自らこれに甘んじるもののようだった。実に現在の韓国仏教は全く生命を失い、形骸が残留しているにすぎなかった。

 

(注10)高麗の太祖-王建。在位は918年から943年。新羅末の混乱で頭角を現し、後三国時代を制して朝鮮半島を統一した。
(注11)高麗の光宗-第4代王。在位は949年~975年。高麗初期の国家基盤を固めた。
(注12)高麗の文宗-第11代王。在位1046年~1083年。社会制度を整え、文化繁栄をさせた王。
(注13)高麗の毅宗-第18代王。在位1146年~1170年。
(注14)朝鮮の太祖李成桂-朝鮮王朝(李氏朝鮮)の始祖。在位1392年~1398年。建国の父だが、末年は王子の主導権争いに失意のまま亡くなった。王位在位中は仏教を弾圧したが、末年は信仰に傾倒した。
(注15)朝鮮の太宗-朝鮮王朝の第3代王。在位1400年~1418年)兄弟と争って王位につき、王朝の基礎を築いた。仏教を規制した。
(注16)朝鮮の文宗-朝鮮王朝第5代王。在位1450年~1452年。
(注17)朝鮮の成宗-朝鮮王朝第9代王。在位1469年~1494年。朝鮮王朝文化の黄金期を築き、色々な書物を編纂させた。
(注18)朝鮮の世宗-朝鮮王朝一の英主として尊敬されている。第4代王。在位1418年~1450年。仏教を規制したが晩年は信仰したようで仏国寺に「仏法僧」の印を与えている。
(注19)朝鮮の世祖-朝鮮王朝第7代王。在位1455年~1468年。残虐で知られる王。

 

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今回終わり
 
 
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