好きということ、嫌いということ | 流ゆく日々

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一日で印象が強かったものを書き綴るブログでございます。

学校の帰り道、今日は友人Iと一緒に下校。

というのも、彼の目的に付き合うためです。


お礼にモンブランもらっちゃいました♪

すっごく美味しかった♪



目的自体に要する時間は殆どなく、すぐに帰りました。

帰りに、彼の親友とその親友の友人と会いました。


その中の1人がすごく行儀が悪い。

唾を他人の自転車に飛ばしたり、老人にぶつかったのを表面的に繕ったあと大笑い。

さらには店舗への迷惑行為。


流の理解を超えています。狂気の沙汰ですね。


友人Iと帰りにそのことについて話してました。


そのとき、流がたどり着いたものは




「道徳、正義、倫理、など個人によって線引きの変わる価値観はつまるところ好き嫌いである。」


という結論。


例えば、幼い頃から「人を殺せ」とか「人を傷つけろ」などと教育され、時代もそのような風潮にあるとき、自分に施された教育が正しいか間違ってるかということを最終的に判断するのはあくまで自分。


「これはおかしい」と思うのは自分がこれを好きだと思えないから。

逆に「これでいいと」思うのは嫌いじゃないから。



今回の行儀悪い人も、流が間違ってると思うことをするのに抵抗がないのは彼がその振る舞いについて考えたとき、「これは嫌いじゃない」という心理が働いているからだ。

こう結論付けました。


もっとも、若いうちは帰属する集団の影響を受けます。

ですから、単純にそのような考えのみで動いているとは言い切れません。


しかし、集団への意識があっても自分のアイデンティティと大きくかけ離れたものならば、自分の意志にもとることは必ずしないでしょう。



人間の倫理観を考えることは難しいです。