今日から「エーテルの会(仮)」をスタートします。
●エーテルとはなにか?●
エーテルとは、古来日本で「気」や「生命」と呼ばれていたもの。
簡単にいうと、人間のなかに流れている「電気」と呼ぶに近いものです。
充電が無くなればiphoneもただの箱になるように、
人間という存在も、このエーテルなくして生きることが出来ません。
エーテルがなくなれば・・・・・・
もとい、エーテルというエネルギーが少なくなるだけで、人間は「気力」が出なくなります。
「気力」は、精神論の話ではないのです。
やる気、勇気、根気、活気・・・・・・
実はこれらは、エーテルという、人間にとっての「電気」があることではじめて湧き出るものなのです。
中国における気功、インドにおけるヨガも、
このエーテルという「電気」を身体に発生させるためのものなのです。
日本では「整体」と呼ばれるものがあります。
いま「整体」と聞いても、ほとんどの人はただのマッサージを想像するかもしれません。
しかし、いまから約50年ほど前までは、整体といえば「手当て」を主な技術とするものでした。
●手当とはなにか?●
手当てとは、自らのエーテルを、手を当てることで相手へと流すことを意味します。
もう少し具体的にいうと、
怪我や病気をしてエネルギーが消耗してる人に、自らのエネルギーを流し入れ、その人の自然治癒力を発揮させるというものです。
現代では気功やレイキ、または絶滅寸前の整体師や、どこぞの新興宗教・・・・・・で、その手当てがなされています。
しかし、それらは本当に効果があるのでしょうか?
怪しいのは、とことん怪しいのがこの世界です。
事実、この「手当て」をするのに、実はそんなに特殊な方法など存在しないのです。
言ってしまえば、誰でもちょっとの訓練をすれば、エーテルを扱える手になってきます。
なのに、高額な授業料を払えなきゃ、この「手当て」をすることは出来ないと説く人がいます。
また、この神様を信じなきゃ、この「手当て」をすることは出来ないと説く人がいます。
こういう人達がいたために、「手当て」は次第に世間から敬遠されるようになってしまいました。
怪しい、お金をとられる、宗教だと言われるようになってしまったのです。
本当は、誰でも使えるし、誰もがそのエーテルがなきゃ生きていけないのにです。
でも、いまさら、どうやってそれを信じられるようになるのか?
これが、この会のテーマです。
信じる必要はありません。実際に実験し、経験をすればいいのです。
この会は、お金を要求することはありません。
信じることを強要することもありません。
この会で求めることは、他に頼らず、自らの感覚で真実をつかむ、それだけです。
それぞれが実験し、これまでの虚妄を捨てて本当のエーテルをつかむのです。
・強いエーテル 弱いエーテルとはなにか?
・熱いエーテル 冷たいエーテルにはどういった違いがあるのか?
・どうすれば、より強いエーテルを出せるようになるのか?
・どうすれば、自分のエーテルを強くすることが出来るのか?
セミナーやなんかで、人に教えてもらうばかりじゃダメなのです。
知識ばかり増やしたところで、そこに現実を動かす力がなきゃ、なんの意味もありません。
それぞれが自分の力に責任を持ち、
それぞれが自分の力を一歩ずつ知っていくことに意味があるのです。
まるで科学者のように、冷静に検証を重ねるのです。
そうして妄想を少しづつそぎ落とし、そこで初めて、自分の力を確信を持って使うことが出来るはずです。
気功や、ヨガや、レイキといった名前を捨てて、自分の体から人間の探求をはじめるべきなのです。
●人間の探求●
自分というものを本当に考えた人が、一体どれだけいるのでしょう?
考えただけじゃなく、実際に知ろうと努力した人が、一体どれだけいるのでしょう?
また、人の話を鵜呑みにせず、自分の体験を頼った人が一体どれだけいるのでしょう?
あんなの嘘だと突き放す前に、実際に試してみる人が一体どれだけいるのでしょう?
そう考えると、この世界は妄想ばかりな気がしてきます。
もし一人ひとりが、自らの体験を頼る人間になれば、この世界はどれだけ変わるでしょうか。
まずは、自分を知ることを始めましょう。
エーテルについて僕は決して教えません。
一緒に考え、お互いに試し、結果を共に導くだけです。
共に探求をしていきましょう。
「思い出のマーニー」を見てきたのですが・・・・・・見終わった瞬間、「これ、リアリティのダンスと同じ話じゃん」とボンヤリしてしまいました。
時代は・・・・・・僕はこの言い方が好きなので良く使いますが、時代は、いま“この無意識”を表象しようと躍起になっているみたいです。だから、同じようなテーマの映画がよく作られる。そして僕ら一人ひとりも、実はそのテーマを無意識に求めている。
なぜなら、それがいまのすべての人にとって必要なテーマでもあるからです。
では、その、いまの時代のテーマとは一体何なのか・・・・・・?
それは・・・・・・家族です。いや、もっと言うと「一族」であり、もうちょっと激しい言い方をすると、それは「一族の呪い」と呼べるものかもしれません。
前にホドロフスキーの話の中で書きましたが、僕たちには両親がいて、その両親にはそれぞれの両親がいるわけです。そして、その一族の関係を根気よく見直してみると、僕らは少なからず両親の・・・・・・もっと言えばその両親、そのまた両親の「影」を受け継いで、その「影」に“取り憑かれて”、いまここにいるのです。
では、それが一体どういうことなのか・・・・・・ということを、「思い出のマーニー」のレビューという形を取って、ここで説明していきたいと思います。もちろん、超ネタバレ。
ーーーーー
「この世には目には見えない魔法の輪がある・・・・・・」
冒頭のシーンで、人とうまく付き合えない杏奈がこんなことを言います。
「輪には内側と外側があって、私は外側の人間・・・・・・。でもそんなのはどうでもいい。私は、私が嫌い」
このシーンを簡単に解釈すると、杏奈はある種の疎外感に苛まれており、「人の輪」に入ることが苦手だと見ることが出来ます。けど、実はこの言葉の持つメッセージはそれだけじゃないのです。するっと聞き流してしまいそうですが、この言葉はそれ以上に、この映画全体のテーマとなる非常に大事なメッセージをいくつも持っています。
ひとつは、すなわち「この世には、魔法の輪が“ある”」ということです。
では、「魔法の輪」とはなんでしょう?
同好会を「サークル」と呼んだりしますが、「魔法の輪」とは、仲の良い人の集まりや、同じ考えを共有している人たちを、ただ言葉で概念化したもの・・・・・・では、ありません。これは、まるでハリボテなただの言葉ではなく、誰もが“実感”したことがあるだろう、「空気」や「雰囲気」と呼ばれる、あの壁に似た、あの集団を包み込む“見えない力”のことを言っているのです。
つまり、概念ではなく、“見えない実質的な力”として「魔法の輪」がある。
そして・・・・・・この「魔法の輪」は空間だけじゃなく時間をも超えて、集団に、ある特定の人格をもたらす。大きく言えば「日本人」なんて括りは、時間も空間も超えた非常に大きな「魔法の輪」になります。「家族」や「一族」というのも・・・・・・つまり、この実質的な力によって、僕たちは一族の“影”を自らの運命に背負っていまここにいるのです。
他のクラスメイトから外れ、ひとり黙々と絵を描く杏奈に「絵を見せてみろ」と男性の教諭が声をかけます。杏奈は照れながら絵を見せようとしますが・・・・・・ここで騒ぎが起こり、男性の教諭はそちらの方へ行ってしまい、杏奈はまたポツリとひとり取り残されてしまいます。
「私をひとりにしないで・・・・・・」
こんなセリフはありませんが、杏奈はこうした心の叫びを噛み殺します。そして、その行き場のない叫びは人への憎しみとなり、自分への苛立ちとなり、喘息の発作となって杏奈自身を苦しめるのです。
この喘息が杏奈の背負う“影”です。
杏奈はまだ幼い頃に両親に先立たれた過去があり、そのことで「自分が置いて行かれること」に特別な悲しみを持っています。そしてその「置いていかれる悲しみ」は、物語が進むにつれ、ある登場人物もまったく同じ悲しみを抱えていることが分かってきます。
「なんだろう、あのお屋敷・・・・・・。知っている気がする」
療養で訪れた地で、杏奈は地元の人が「湿っ地屋敷」と呼ぶ古い屋敷に強く心を惹かれます。そして七夕のお祭りで、「普通に暮らせますように」と書いた短冊と“青い目”が見つかり「あなたは普通には生きられない。あなたはあなた通りだもの」と地元の子に言われ・・・・・・その場から涙ながらに向かったその屋敷で、杏奈は“目の青い”不思議な女の子に出会います。
「私の名前はマーニー。私の名前は知ってると思ってた」
夢なのか、現実なのか・・・・・・この子は一体何者なのか。
そうして杏奈はよく分からないままマーニーのことが好きになり、それから満ち潮の時間になるたびにマーニーに会いにいくようになります。そしてあるとき、自分の持つ両親への憎しみをマーニーへ打ち明けると、マーニーも同じように自らの秘密を杏奈へ打ち明けはじめます。
「忙しい両親に屋敷に置いてかれて、屋敷では、ばあやとメイやにいつも虐められているの」
それを聞いた杏奈は「こんな酷い話は聞いたことがない!」と怒り、マーニーを助けたいと思います。そして、マーニーが特別に怖れる「サイロ」へ「私がそばにいるから」と一緒に行くことを提案します。
「あなたがいれば・・・・・・きっと大丈夫」
ここでちょっと想像して貰いたいのですが、もし誰かが、自分が最も怖れる場所でずっとそばにいてくれたら・・・・・・一体それは、どれだけ人の心を温かくするでしょうか? そんな怖ろしいときに「大丈夫だよ」と、ずっとそばで言ってくれる人がいるということが、一体どれだけ人の孤独を溶かすのでしょう?
そうして杏奈は、豪雨の中、サイロでうずくまるマーニーのそばにい続けます。
「大丈夫だよ・・・・・・! 私がそばにいるよマーニー・・・・・・!」
・・・・・・いつのまにか眠っていた杏奈が目を覚ますと、もうそこにはマーニーの姿はどこにもありませんでした。「マーニーどこなの! なんで私を置いていってしまったの?!」
・・・・・・では、マーニーとは一体何なのでしょう。
その後、療養の地に来た育ての母に杏奈は一枚の写真をもらいます。その古い写真には例の湿っ地屋敷が写っており、「杏奈のおばあちゃんが大事にしてた写真で、杏奈は小さいころずっとその写真を握りしめていたのよ」と言われます。杏奈は驚いてその写真を受け取り・・・・・・そして、おもむろに写真を裏返すと、そこにはおばあちゃんの手でこんな言葉が書かれていました。
「わたしの大好きなお家 マーニー」
実はマーニーは、杏奈のおばあちゃんだったのです。
しかし、じゃあどうして少女のマーニーが杏奈のそばに現れたのか・・・・・・また、現れたマーニーが持っていた「置いてかれる悲しみ」と、杏奈の持つ「置いてかれる悲しみ」は、一体どうしてこんなに共通しているものがあるのでしょうか?
更に言えば、マーニーと幼なじみだったという久子さんによれば、マーニーは杏奈の母にあたる自分の娘を、やむを得ない理由から全寮制の学校に入学させました。親から引き離された娘は、そのとき母のマーニーに一体なにを思ったでしょう・・・・・・?
つまり、マーニーの「置いてかれる悲しみ」は、娘に、そして孫の杏奈に深く遺伝しているのです。そしてこの遺伝の原因こそが、この一族の持つ「魔法の輪」であり、この一族が取り憑かれている“影”になるわけです。
実際、よくよく根気強く見つめると、僕たちは多少なりとも親の“影”を背負って生きています。違う言葉で言うと、親の背負っていた“呪い”を、無意識に、自らも実現させるべく生きているのです。自由だとか、ありのままだとか言う以前に、僕たちはおよそ一族の「魔法の輪」に縛られています。
しかも、親にはその親がおり、その親にはまた親がいるというように・・・・・・この“呪い”は親から偶然受け継ぐレベルの話じゃなく、一族へ、まるでその血に刻まれたもののように根深く働きます。杏奈の目が青いのは、この一族と血を象徴したものなのです。
でも、そうは言っても、この“呪い”も解く方法があるはずです。そして、その“呪い”が“呪い”じゃなくなる様子が、まさにこの映画の結末に描かれています。
このことに関連して、2人が初めて出会ったときにこんな約束を交わすシーンがあります。
「私たちのことは秘密よ、“永久に”」
つまり、この一族の「見えない魔法の輪」は、そう簡単に切れるものじゃないというのです。親子の縁を切れば“呪い”も切れるかといえばそうじゃなく、例え親の顔を知らなくてもこの「魔法の輪」は“永久”にいつまでも続いていく・・・・・・。
ただだからと言って、永久に“呪い”が続くわけではありません。続くのは一族の見えない繋がりであり「魔法の輪」であって、その輪に染みた“呪い”は、いまを生きる僕たちが、一族の過去にどう関わるかによって変えることが出来ます。
どういうことかと言うと、もし杏奈の喘息が“呪い”だとしたら、そこでいくら今の杏奈自身を治療してもこの“呪い”は解けないということです。この“呪い”を解くには、杏奈を越えた一族の過去に杏奈自身が飛び込まなくてはなりません。親やその親と再会し、いまはまだ“呪い”としか見えないものを理解し、受け止め方を変えて“祝福”し、そうしてはじめて“呪い”は“呪い”という姿を変え喘息という現実も変わりうるのです。
「どうして私を置いていってしまったの?! どうして私を裏切ったの?!」
「杏奈お願い。許してくれるって言って!」
「・・・・・・もちろんよ! 許してあげる! あなたが好きよ、マーニー!!」
先に述べた、杏奈のマーニーを助けたいという想いと行動。そして、この杏奈がマーニーに伝えた最後の言葉には、その理解と“祝福”が温かく込められています。
親の友となること。親の親となることで、僕たちはその“呪い”をただ受ける側から“祝福”する側へ変わることが出来るのです。
最後に、杏奈はその後どうなっていくのでしょうか?
育ての母を、「おばさん」じゃなく「母」と言えるようになった杏奈は、それまでの「一族の輪」から、新しい「家族の輪」を受け入れるまでになりました。
僕たちの人生も同じです。一つの輪に、いつまでも繋がれててはそれは“呪い”と同じなのです。僕たちは輪に振り回されるだけじゃありません。新しい輪と出会えるし、永久に消えない輪に自分の色を付け足すことも出来る。
人生とは、消えない輪に繋がれつつ、新しい繋がりと出会うことです。
それにただ呪われるのか、それとも祝福するのか・・・・・・僕たちの中に過去が生きるのではなく、僕たちが過去を生きる。そうして、新しい未来も生まれるのです。
時代は・・・・・・僕はこの言い方が好きなので良く使いますが、時代は、いま“この無意識”を表象しようと躍起になっているみたいです。だから、同じようなテーマの映画がよく作られる。そして僕ら一人ひとりも、実はそのテーマを無意識に求めている。
なぜなら、それがいまのすべての人にとって必要なテーマでもあるからです。
では、その、いまの時代のテーマとは一体何なのか・・・・・・?
それは・・・・・・家族です。いや、もっと言うと「一族」であり、もうちょっと激しい言い方をすると、それは「一族の呪い」と呼べるものかもしれません。
前にホドロフスキーの話の中で書きましたが、僕たちには両親がいて、その両親にはそれぞれの両親がいるわけです。そして、その一族の関係を根気よく見直してみると、僕らは少なからず両親の・・・・・・もっと言えばその両親、そのまた両親の「影」を受け継いで、その「影」に“取り憑かれて”、いまここにいるのです。
では、それが一体どういうことなのか・・・・・・ということを、「思い出のマーニー」のレビューという形を取って、ここで説明していきたいと思います。もちろん、超ネタバレ。
ーーーーー
「この世には目には見えない魔法の輪がある・・・・・・」
冒頭のシーンで、人とうまく付き合えない杏奈がこんなことを言います。
「輪には内側と外側があって、私は外側の人間・・・・・・。でもそんなのはどうでもいい。私は、私が嫌い」
このシーンを簡単に解釈すると、杏奈はある種の疎外感に苛まれており、「人の輪」に入ることが苦手だと見ることが出来ます。けど、実はこの言葉の持つメッセージはそれだけじゃないのです。するっと聞き流してしまいそうですが、この言葉はそれ以上に、この映画全体のテーマとなる非常に大事なメッセージをいくつも持っています。
ひとつは、すなわち「この世には、魔法の輪が“ある”」ということです。
では、「魔法の輪」とはなんでしょう?
同好会を「サークル」と呼んだりしますが、「魔法の輪」とは、仲の良い人の集まりや、同じ考えを共有している人たちを、ただ言葉で概念化したもの・・・・・・では、ありません。これは、まるでハリボテなただの言葉ではなく、誰もが“実感”したことがあるだろう、「空気」や「雰囲気」と呼ばれる、あの壁に似た、あの集団を包み込む“見えない力”のことを言っているのです。
つまり、概念ではなく、“見えない実質的な力”として「魔法の輪」がある。
そして・・・・・・この「魔法の輪」は空間だけじゃなく時間をも超えて、集団に、ある特定の人格をもたらす。大きく言えば「日本人」なんて括りは、時間も空間も超えた非常に大きな「魔法の輪」になります。「家族」や「一族」というのも・・・・・・つまり、この実質的な力によって、僕たちは一族の“影”を自らの運命に背負っていまここにいるのです。
他のクラスメイトから外れ、ひとり黙々と絵を描く杏奈に「絵を見せてみろ」と男性の教諭が声をかけます。杏奈は照れながら絵を見せようとしますが・・・・・・ここで騒ぎが起こり、男性の教諭はそちらの方へ行ってしまい、杏奈はまたポツリとひとり取り残されてしまいます。
「私をひとりにしないで・・・・・・」
こんなセリフはありませんが、杏奈はこうした心の叫びを噛み殺します。そして、その行き場のない叫びは人への憎しみとなり、自分への苛立ちとなり、喘息の発作となって杏奈自身を苦しめるのです。
この喘息が杏奈の背負う“影”です。
杏奈はまだ幼い頃に両親に先立たれた過去があり、そのことで「自分が置いて行かれること」に特別な悲しみを持っています。そしてその「置いていかれる悲しみ」は、物語が進むにつれ、ある登場人物もまったく同じ悲しみを抱えていることが分かってきます。
「なんだろう、あのお屋敷・・・・・・。知っている気がする」
療養で訪れた地で、杏奈は地元の人が「湿っ地屋敷」と呼ぶ古い屋敷に強く心を惹かれます。そして七夕のお祭りで、「普通に暮らせますように」と書いた短冊と“青い目”が見つかり「あなたは普通には生きられない。あなたはあなた通りだもの」と地元の子に言われ・・・・・・その場から涙ながらに向かったその屋敷で、杏奈は“目の青い”不思議な女の子に出会います。
「私の名前はマーニー。私の名前は知ってると思ってた」
夢なのか、現実なのか・・・・・・この子は一体何者なのか。
そうして杏奈はよく分からないままマーニーのことが好きになり、それから満ち潮の時間になるたびにマーニーに会いにいくようになります。そしてあるとき、自分の持つ両親への憎しみをマーニーへ打ち明けると、マーニーも同じように自らの秘密を杏奈へ打ち明けはじめます。
「忙しい両親に屋敷に置いてかれて、屋敷では、ばあやとメイやにいつも虐められているの」
それを聞いた杏奈は「こんな酷い話は聞いたことがない!」と怒り、マーニーを助けたいと思います。そして、マーニーが特別に怖れる「サイロ」へ「私がそばにいるから」と一緒に行くことを提案します。
「あなたがいれば・・・・・・きっと大丈夫」
ここでちょっと想像して貰いたいのですが、もし誰かが、自分が最も怖れる場所でずっとそばにいてくれたら・・・・・・一体それは、どれだけ人の心を温かくするでしょうか? そんな怖ろしいときに「大丈夫だよ」と、ずっとそばで言ってくれる人がいるということが、一体どれだけ人の孤独を溶かすのでしょう?
そうして杏奈は、豪雨の中、サイロでうずくまるマーニーのそばにい続けます。
「大丈夫だよ・・・・・・! 私がそばにいるよマーニー・・・・・・!」
・・・・・・いつのまにか眠っていた杏奈が目を覚ますと、もうそこにはマーニーの姿はどこにもありませんでした。「マーニーどこなの! なんで私を置いていってしまったの?!」
・・・・・・では、マーニーとは一体何なのでしょう。
その後、療養の地に来た育ての母に杏奈は一枚の写真をもらいます。その古い写真には例の湿っ地屋敷が写っており、「杏奈のおばあちゃんが大事にしてた写真で、杏奈は小さいころずっとその写真を握りしめていたのよ」と言われます。杏奈は驚いてその写真を受け取り・・・・・・そして、おもむろに写真を裏返すと、そこにはおばあちゃんの手でこんな言葉が書かれていました。
「わたしの大好きなお家 マーニー」
実はマーニーは、杏奈のおばあちゃんだったのです。
しかし、じゃあどうして少女のマーニーが杏奈のそばに現れたのか・・・・・・また、現れたマーニーが持っていた「置いてかれる悲しみ」と、杏奈の持つ「置いてかれる悲しみ」は、一体どうしてこんなに共通しているものがあるのでしょうか?
更に言えば、マーニーと幼なじみだったという久子さんによれば、マーニーは杏奈の母にあたる自分の娘を、やむを得ない理由から全寮制の学校に入学させました。親から引き離された娘は、そのとき母のマーニーに一体なにを思ったでしょう・・・・・・?
つまり、マーニーの「置いてかれる悲しみ」は、娘に、そして孫の杏奈に深く遺伝しているのです。そしてこの遺伝の原因こそが、この一族の持つ「魔法の輪」であり、この一族が取り憑かれている“影”になるわけです。
実際、よくよく根気強く見つめると、僕たちは多少なりとも親の“影”を背負って生きています。違う言葉で言うと、親の背負っていた“呪い”を、無意識に、自らも実現させるべく生きているのです。自由だとか、ありのままだとか言う以前に、僕たちはおよそ一族の「魔法の輪」に縛られています。
しかも、親にはその親がおり、その親にはまた親がいるというように・・・・・・この“呪い”は親から偶然受け継ぐレベルの話じゃなく、一族へ、まるでその血に刻まれたもののように根深く働きます。杏奈の目が青いのは、この一族と血を象徴したものなのです。
でも、そうは言っても、この“呪い”も解く方法があるはずです。そして、その“呪い”が“呪い”じゃなくなる様子が、まさにこの映画の結末に描かれています。
このことに関連して、2人が初めて出会ったときにこんな約束を交わすシーンがあります。
「私たちのことは秘密よ、“永久に”」
つまり、この一族の「見えない魔法の輪」は、そう簡単に切れるものじゃないというのです。親子の縁を切れば“呪い”も切れるかといえばそうじゃなく、例え親の顔を知らなくてもこの「魔法の輪」は“永久”にいつまでも続いていく・・・・・・。
ただだからと言って、永久に“呪い”が続くわけではありません。続くのは一族の見えない繋がりであり「魔法の輪」であって、その輪に染みた“呪い”は、いまを生きる僕たちが、一族の過去にどう関わるかによって変えることが出来ます。
どういうことかと言うと、もし杏奈の喘息が“呪い”だとしたら、そこでいくら今の杏奈自身を治療してもこの“呪い”は解けないということです。この“呪い”を解くには、杏奈を越えた一族の過去に杏奈自身が飛び込まなくてはなりません。親やその親と再会し、いまはまだ“呪い”としか見えないものを理解し、受け止め方を変えて“祝福”し、そうしてはじめて“呪い”は“呪い”という姿を変え喘息という現実も変わりうるのです。
「どうして私を置いていってしまったの?! どうして私を裏切ったの?!」
「杏奈お願い。許してくれるって言って!」
「・・・・・・もちろんよ! 許してあげる! あなたが好きよ、マーニー!!」
先に述べた、杏奈のマーニーを助けたいという想いと行動。そして、この杏奈がマーニーに伝えた最後の言葉には、その理解と“祝福”が温かく込められています。
親の友となること。親の親となることで、僕たちはその“呪い”をただ受ける側から“祝福”する側へ変わることが出来るのです。
最後に、杏奈はその後どうなっていくのでしょうか?
育ての母を、「おばさん」じゃなく「母」と言えるようになった杏奈は、それまでの「一族の輪」から、新しい「家族の輪」を受け入れるまでになりました。
僕たちの人生も同じです。一つの輪に、いつまでも繋がれててはそれは“呪い”と同じなのです。僕たちは輪に振り回されるだけじゃありません。新しい輪と出会えるし、永久に消えない輪に自分の色を付け足すことも出来る。
人生とは、消えない輪に繋がれつつ、新しい繋がりと出会うことです。
それにただ呪われるのか、それとも祝福するのか・・・・・・僕たちの中に過去が生きるのではなく、僕たちが過去を生きる。そうして、新しい未来も生まれるのです。
「アナと雪の女王」を見ましたので、壮大にネタバレ・レビューをしたいと思います。
というより見る前は「レリゴーなんて、へっ!! どうせヒットしたのはマーケティングのおかげでしょ・・・・・・? そのマーケティングの魔法も、僕が見るからには『曇りなき眼』よろしく、もうメッタンメッタンのギッタンギッタンにこの映画の素を暴きだしてやるからね。切り刻んで素っ裸にしてやるからよお・・・・・・覚悟しとけよレリゴ~」
なんて、「おまえ何様?」って感じの悪態をつきながらTSUTAYAでレンタルしたのですけどね。で、家に帰ってから、さっそくテレビの前に正座して見たのですが・・・・・・
「うん。なるほどね・・・・・・」
見終わるや、僕のアマノジャクが思わず閉口。というか、メッセージのいっぱい詰まった、いまの世の流れに非常にマッチした面白い映画でした・・・・・・。
けど、ちなみにこの映画を見た人は、見て一体なにを感じるのでしょうね?
レリゴー、つまり「ありのままの自分」がフューチャーされてばかりのこの映画ですが・・・・・・。なにかこの映画を「女性が、抑えていたものを解放させるための映画」みたいな捉え方をされてる人もいるようですが、見たらぜんぜん違いましたし。
いや、少しはそうだったかも・・・・・・いや、やっぱ断じて違うな。
確かに映画は、エルサが「隠しなさい」と言われ続けた自分の『力』を「私は自由よ~!」と、ドバっと解放するシーンが印象的ですが・・・・・・次の瞬間、「ああ、私はなんて愚かなの・・・・・・!」って、さっそく後悔をはじめますしね。
つまり、ただ「抑えていたものを爆発させろ! 世界に自らを重んじさせよ!」って、そんなバカなことをこの映画は言ってるわけじゃないのです。平和運動なんかでよく言われますが、暴力に対し暴力で対抗したところで、更なる暴力を呼ぶだけです。抑えていた力を突発的に解放させるなんてのも、言ってみれば暴力です。エルサはその力の暴発させる余り、国を滅亡の危機にしてしまったわけですから。
そして、この映画のエルサとアナは、言ってみれば少女の「内向的な面」と「外向的な面」の表裏を象徴しているように思われます。
もう一度いうと、エルサが少女の内向的な面を、そしてアナが外向的な面を現しているようです。
エルサが自分の世界を作りあげるのに必死だとしたら、アナは“一般的な”夢や理想を叶えるのに必死なのです。つまり、アナは「よくある・・・・・・」って言っちゃダメですが、「白馬の王子様願望」が強い、流行やなんかに乗りやすくては、自分を見失っちゃう・・・・・・そんな少女心を象徴しているようです。
僕は男子なのでよく分かりませんが、これまでのディズニー映画の刷り込みかなんかで、世の中には「白馬の王子様症候群(シンデレラコンプレックス)」なんてのもあるみたいですしね。どんなコンプレックスかというと、「いつか私の運命の人が私を迎えに来てくれる・・・・・・」と思い込んでは身近な運命に気付かなくなるような。もしくは、「この人が私の運命の人だわ!」って思い込むや、なりふり構わず、まるで雌牛の如く暴走しちゃうというような。
で、アナもまさに「白馬の王子様症候群」で、「パーティで素敵な人に出会っちゃったらどうしよう~」なんて道を歩いてるところで、まさに「白馬の王子様」がアナにぶつかってくるわけです。そして、歌って踊ってと楽しい時間を過ごしたあとに、突然結婚を決意しちゃう。けど、映画を見た方ならご存じのように、この王子様は言ってみれば「結婚詐欺師」なんですね。ただアナは・・・・・・もっといえば“多くの少女”は、自分の夢という名の「嘘(思いこみ)」で世界を見てしまっているため、そのことに気づけないわけです。エルサの城に着く直前、アナが果敢にもロッククライミングに挑むシーンがありますが・・・・・・あれも、アナは高い場所まで登ったと思い込んでますが、実は1メートルも登っていない。つまりアナは、思いこみが強く現実が見えていないわけです。
そして、そのことこそが、この「アナと雪の女王」の鍵なのだと思います。
つまりこの映画の核心は、「自らついている“嘘”から、少女自身を解放する」そのことにあるのです。
エルサは散々魔法を使ったあとにこう言います。
「解き方が分からないの!」
エルサもエルサで、自らの“魔法”に逆に翻弄されてしまいます。これも現代ではよくある光景で、まるで自分を世界で解放するために得た力(社会的地位や、鉄壁のそとづら)に、自分自身がいつの間にか振り回されているようです。
そしてアナは、エルサの魔法をハートに受けてしまい・・・・・・凍りつくハートをどうすれば? と、トロールの長老に相談をします。すると、長老は深刻な様相でこう言います。
「ハートを溶かすのは、真実の愛じゃ・・・・・・!」
まあ、そう言われても「ですよね」としか言いようがないありきたりのセリフですね。けど、少し考えると、このセリフには二重の意味が込められているのが分かります。
つまり、「真実の愛と共に、真実じゃない愛がある」ということです。
そして、これがこの映画の裏の核心部分になると思います。真実じゃない愛を信じたら大変なことに・・・・・・まあ言ってしまえば、白馬の王子様願望なんてのはもってのほかで、“自分に尽くすための愛”つまり「ありのままの自分」も、ここで無意識に真実じゃない愛に貶められているのです。
では、じゃあ一体なにが真実の愛なのか・・・・・・
それを存在として語っているのが「オラフ」ですね。
彼は、雪だるまでありながら、自分を溶かす夏を愛おしみます。そして、ピンチのときは「僕がオトリになるから逃げて!」と言い、アナが寒さに震えるなら自分が溶けるのも構わず暖炉に近づき火をおこす、言わば自己犠牲の塊のような存在です。
「真実の愛とは、自分より相手のことを想うことだよ」
つまり、ありのままの自分どころか、自分を犠牲にしろということです。ここが大事なのですが「自分を犠牲に出来る相手」こそが、本当の王子様だということです。「自分のために犠牲になってくれる相手」ではないのです。もちろんそれも「真実の愛」には変わりないですが・・・・・・でも、それならアナのハートはオラフやクリストフの愛で溶けているはずで、じゃあなぜ溶けないのかと言うと、その愛はアナから湧き出た真実の愛じゃないからなのです。愛を受け取るだけじゃダメなのです。愛を受け取るではなく、自ら真実の愛を生み出して、そこではじめてアナの魔法は解けるのです。
ハンス王子に裏切られたアナは、オラフの言葉を聞くや「私のために自分を抑えたクリストフこそ私の王子様だったんだ!」と、白馬の王子様とは真逆なクリストフに向かって吹雪のなかを走りだします。
クリストフは、彼が白馬じゃなく臭いトナカイに乗って登場するあたりに、夢の欠片もない、欠点だらけの現実の男性像を見ることが出来ます。
ただ、アナがクリストフに「私はここよ」と叫ぶ時点では、まだアナは愛は与えてもらうものだと思っている。確かに白馬の王子様願望は消え、現実的な愛に気付けるようにはなりましたが・・・・・・まだ自分自身が愛になってはいないのです。
そして、クライマックスです。ここで愛を知るための最後の試練が訪れます。
アナはクリストフを発見すると同時に、いまにも殺されそうなエルサを見つけてしまいます。アナは、クリストフに口づけされたら自分の命が助かると思っています。つまりこのシーンは、一見「王子様をとるか、姉をとるか」といった構図にも見えますが、実はそうじゃないのです。
本当は「自分の命をとるか、姉の命をとるか」という、究極の自己犠牲への問いがこのシーンなのです。
そして、アナは自分を捨て、エルサの命を選ぶのです。案の定、エルサは助けられたものの、アナ自身は凍りつき・・・・・・それを見たエルサが泣き崩れます。
「私のせいで死の途にあったアナが、私を恨むどころか、自分を犠牲にしてまで私を守ってくれた・・・・・・」
エルサは自分が愛されていたことに、ここでようやく気付きます。これまで自分の犯した罪(魔法)を背負い、傷つけないよう、まるでハリネズミのように人と距離をとっていたエルサが、このアナの捨て身の愛によって、「自分は許されている」ことに気付くのです。
そして、アナは魔法が解けます。これも一見、エルサの愛によって氷が溶けたようにも見えますが・・・・・・けど実は、アナ自身から生まれたエルサへの愛によって魔法が解けたのです。白馬の王子様から、身近な愛の気付きをヘて・・・・・・とうとうアナ自身が真実の愛となったのです。
もうアナは待ちません。最後にクリストフが「もう、キスしたいくらい嬉しいよ!」と言うと、シャイなクリストフにアナが自分からキスをします。
エルサも、まるで自らの心を溶かすように、世界の氷を溶かしはじめます。そしてまた昔のように城から出て、魔法を使ってアナや人々と関わることをはじめるのです。
・・・・・・これでストーリーはお終いです。
「魔法を解くのは、自分より相手を大事にする愛であり・・・・・・それによって人は自らを許し、自らもまた人を愛せるようになる」が、簡単に言えばこの映画のメッセージなのでしょう。
けど、ここは簡単にじゃなく、よくよく考えてください。
僕たちは大事な人を本当に自分から愛せているのかと。
自分はアナのように求めてばかりじゃないかと。
自分のプライドを捨てて、自分から相手に寄り添ったことはあるのかと。
「ありのまま」と言いつつ、本当は怖くて氷の城に隠れてるだけじゃないかと。
もしくは大事な人が氷の城に篭もってるときに、自分はそこにノックし続けることが出来るのかと。
そして、自分の夢(思いこみ)が本当に必要なものなのか、その夢で自分を騙していないかと、よくよく考えてみるべきです。
例えばこの映画にしたって、「ありのままが素晴らしい」なんて一言も言ってません。「男なんていらない」なんてことも言ってません。もしこの映画を見てそれを思うのだとしたら、それは見る人が自分の中にある夢や呪いを再生してるに過ぎません。心に巣くう悪魔に騙されているのと同じなんです。
物事をよく見てください。物事の真実を、よく知ろうとしてしていきましょう。
自分で自分を騙している限り、“本当に”人を愛することも出来ません。いつまで氷の城に閉じこもってる気ですか?
