『こんな年老いた貧弱な姿を皆の前に晒す等とは思ってもいななんだ。
何を訊きたいのじゃな?』

とヤチチ様から声がかかった。
咲良が取継ぎを始めた。

「先ず、この場所のこと、ヤチチ様の一生のこと、邪馬台国のこと、卑弥呼女王のこと等を教えて下さい。」

『私は今から約1700年前の弥生時代の九州北部の伊都国の北西部にある芥屋の大門(けやのおおと) の近くにあった芥屋村で生まれ育ちました。
両親は伊都国に滅ぼされた斯馬国(しまこく)の王と王妃でした。
しかも母親は鬼道(きどう)の巫女でした。
伊都国に国を滅ぼされて以降は、当時は女子供は殺されるか、奴隷にされるかでしたが、母が巫女だった為に、母は伊都国王の妾とされて、私達子供は巫女見習いとさせられて、芥屋の大門の近くの修業場に住んでいたのです。

  芥屋の大門

私には一人の姉がいました。
その姉は、母の鬼道の後継者の祭祀姫となっていました。
既に、私達見習いの巫女の指導と伊都国の祭祀の実行巫女をしていました。
見習いの巫女には、私の他に私と同じ歳のヒミという伊都国王の娘が居ました。
私とヒミは鬼道の習得を互いに競争していました。
私達の他にも若い後輩の見習い巫女が10人程、回りの倭国連合国から派遣されて来ていました。
この倭国連合での一番大きな祭は伊都国の隣国、奴国が主催する博多湾の入口にある志賀島にある志賀海神社で毎年正月13日から15日まで行われる祭でした。
奴国はこの当時の倭国では一番大きな国でした。
志賀海神社の主神は綿津美之大神で、この奴国と同盟を結ぶ阿曇族という海人が信仰する海の護り神でした。
奴国は何時も、この祭に中国大陸の漢から下賜された金印を供えていたのでした。
伊都国の王はこのことが不愉快でなりませんでした、
倭国連合の中でも何時も奴国が主役でした。
それで、何時か自分が金印を手に入れて、倭国連合の主役となろうという計画をしていたのでした。
その為の色んな細工を行っていました。
奴国は色々な銅製品や物の生産と、稲作をはじめ農作物の生産が多く、多くの富を持っていましたが、領土は広いが軍事的には、伊都国や、不彌国に劣っていました。
不彌国は元は面国と言って、中国大陸南部の夷族で、同盟の阿曇族の国、対馬に攻め込んで来たのを奴国が制圧して、対馬を明け渡す代わりに奴国の一部に住むことを赦した国でした。
伊都国王はそんな奴国を良く思わ無い国と仲良くしたり、自国内に殺人集団を養成して、大きな脊振山を迂回して、「うしどん」と称して奴国の小さな村々を襲って金品や、女性を略奪したりしていたのでした。
ある年の正月。
事件が起きました。
志賀海神社の祭の夜に不彌国が夜襲をかけて、奴国の王族が殺されて、金印が行方不明になるという事件が興ったのでした。
伊都国と不彌国は直ぐに奴国の主要な生産拠点や、政治拠点を占領して、奴国をそのまま生かした傀儡の国として自分達で操作したのでした。
その内に、大地震が起きたり、小国同士の戦争が起きたり、倭国連合内に乱れが生じて来た為に、私の姉は王の要求に負けて偽の神託を出したことを悔やんで、芥屋の大門に籠り、出て来ませんでした。
王の命令にも服従せずについに毒殺されてしまいました。
その後、倭国連合を牛耳った伊都国王は新たな女王国を造ることに倭国連合の賛同を得て、自分の娘のヒミを女王に擁立して、私をヒミの助祭巫女としたのでした。
当時はヒミより私の方が鬼道を良く使いこなしていたのでした。
私は王に反抗して伊都国から逃げ出したのでした。
しかし、不彌国の役人に捕まり、伊都国に戻され、奴隷という身分に落とされたのでした。
咲良殿、私の服装をみて気が付くことはありませんか?』

「はい、緋色の帯が目立つのですが!」

『そうです。
この緋い腰紐は奴隷の印なのです。
そして、私は阿曇族の船に乗せられて、新しく出来た邪馬台国に送られ、婢として支えることとなったのです。
しかし、私が邪馬台国にいることを知った卑弥呼と名を改めて女王となっていたヒミは私の所に来て、鬼道を手伝う様に命令したのでした。
私は手伝う様な真似をして、様子をみて、逃げ出したのでした。
この頃、邪馬台国では天に届く様な高い神殿を建設していた途中でしたから、回りの村から多くの材木が寄せられて来ていたので、出入りの人が多く、その一つの荷車の菰に身を隠し、逃げ出したのでした。
そしてこの用瀬村の村長に匿われて、この神社の前進の祠の護り役になり、身を隠していたのですが、半年後、捜索していた邪馬台国の兵隊に見つけられて、逃げ出そうとした時に斬り殺されてしまいました。
それで、私は婢の姿で人霊となって、ここでこの国の行く末、特に人間達の行く末を見守ろうとしたのです。』

「ヤチチ様は本当は、どんな姿の神様でしょうか?」

『そのことを言う前に人間を神が造ったことから説明する必要があるようですね!
人間のことを、神は生宮と言うのですが、根元様の思いを具現化するように生き物や、神の設計図を作ったのが、人祖之神で、その設計図に基づいて人間を造ったのが、人祖でした。
しかし、地球神界の龍体神も自分の分け魂のを注入したり、各人体の部分部分の護り役となったりして、協力をされたのです。
その一つ一つは全て根元様の思いを受けて神達が努力を結集して造りあげたのですよ。
前に五元霊について聴いていると思うが、この五元霊も全て採り入れています。
色霊では五色人、つまり赤人、白人、黄人、青人、黒人がそうであります。
言霊や、音霊で意思を伝えて、数霊で源流や、歳を覚え、色を見て癒される。
もちろん、心の中にはミタマがあり、魂(たましい)は音色に変わる、色づなともいう。
しかし、多くの人類の雛型が造られては失敗して葬られて行っていることは、神も胸が痛いことではあります。
今から約650万年前、猿(チンパンジー)と人間を分けたのです。
アフリカのタンザニアのオルドバイ渓谷でした。
そして、アフリカからアジアや、ヨーロッパに進出して行き、猿人から原人と変わって行き、旧人、新人類へと成長して行ったのです。
およそ240万年前に誕生した新人類、ホモ・サピエンスが、南西諸島経由で鹿児島の開聞岳に至り、第一源流祖の大地乃将軍之大神が分け魂を入れられ、同時に第二源流祖の常世姫之大神も分け魂を入れられて、しばらく後に、第三源流祖の春香味道之大神が分け魂を入れられて、同時に各地に散らばっていた別の新人類にも分け魂が入れられて、全ての人類の源流が定まったのでした。
日本には、この南西諸島経由の他に朝鮮半島経由と樺太、北海道経由の三方向から到来し、その縄文人は約1万年もの長い間、平和に暮らしていました。
しかるに、アジアにいた新人類達は魄(はく)の慾心がこうじて、文化が発展するに従い、争いがうまれ、大陸から地方にさらに移動を開始しはじめて、日本にも、主に朝鮮半島経由や、中国大陸から直接長崎等を経由して渡来民が頻繁に渡って来て、平和に暮らしていた原住民の縄文人を駆逐併合して行ったのでした。
特に、九州北部は多くの国が出来たのでした!
その国が集まって倭国連合を造ったのです。
私は現世に生まれて物、つまり身を持って、その時代の苦しい生宮の思いを識ることで、少しでも、生宮達の苦しさの度合いを薄めることが出来ればと思い、この世に生まれて、死んで、人霊となったのです。
私を鬼子母神と呼ぶ人々もいました。
本当の名前は人祖之神妻神、又の名を大母神とも言います。
しかし、人霊の時はヤチチと呼んで下さい。』

「人霊様に遭った時の挨拶の仕方を教えて下さい。」

『二礼三拍手一礼して、
「風よ、日よ、空よ、山よ、大地よ、海よ、
巡り会わせてくれたことを
感謝致します。」
後は三拍手も何もいりません。
覚えておいて下さい。』

                                                                                 (つづく)