紀元2世紀の中葉でした。

筑後平野の西を流れる大河、筑後川の支流域に多くの小国が存在していました。

    有明海に注ぐ筑後川河口

北の伊都国や奴国と脊振山で隔たれたこの地区は紀元前200年頃、中国の徐福(徐市とも言う)が、使えていた秦の始皇帝に、はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました。
願いが叶い、莫大な資金を費やして旅だったのですが、何も得るものが無く、帰国したのでした。
徐福は始皇帝に言い訳しました。

「私は海中の大神に会うことが出来ました。
大神の言われれるには、

『お前の支える秦の王は礼が薄い。
不老不死の薬草を見せてはやるが取らせる訳にはいかぬ!』

と。
私は大神に連れられて東南の蓬莱山に行きました。
見れば綺麗な芝生の中に宮殿がありました。
そして、銅色の龍の形をした使者がおり、その光は天上を照らしていました。
そこで私は再拝して、どのようなものを奉献すれば霊草を取らせていただけますか?
と尋ねたら、海神曰く、

『名家の男子と女子と百工を差し出せば得ることが出来よう』

と言われました。」

と。
その話の聴いた始皇帝は考えていましたが、徐福の説得に負けて、男女三千人、五穀の種子、百工を与えて再び船出することを許したのでした。
始皇帝を上手く手玉にとって移住したのが、九州の有明海の中程のこの筑後川岸だったのでした。
徐福達の多くの船の数隻は本団とはぐれて、西の長崎沿岸や離れ諸島の五島や生月島地方に漂流した者もいましたが、殆どの者達はこの筑後平野に上陸して、各地に村を造って行ったのでした。
その内の半分程が他の入植地を求めて日本列島の各地に散開して行ったのでした。
筑紫、筑豊、肥後、豊前(東南部)、豊後、日向、大隅、攝津、河内、大和、島根等、遠くは本当に仙人の住む仙山を求めて富士山の麓まで行った人々もいました。

しかし、当時の日本列島には、古くから原住民として住んでいた、朝鮮半島に住んでいたオロチョン族が渡来して熊襲(くまそ)やモンゴロイド系統のシベリヤから北海道を経由して南下して東北地方に住み着いていたアイヌ系統に原住民、琉球諸島から移住してきた琉球系統の原住民の織り成す縄文人と、徐福達耳族に他の中国からの移住渡来民の巴族(はぞく)等の弥生人達が入り交じって住んでいて、縄文時代が終り、弥生時代に変わろうとしていたのでした。

有明海から筑後平野に入植した徐福達はこの平野の中を流れる筑後川とその支流域に住み着いて村を造り、時代と共に村が国に育って行っていました。
筑後川を挟んで、西側に鬼奴国(きなこく)がその西に為吾国(いごこく)、筑後川の東に姐奴国(せなこく)、続いて呼邑国(こおこく)、その南に投馬国(づまこく)等に別れて国を形成していたのでした。
回りには北の脊振山を境にして巴族の奴国(なこく)、伊都国(いとこく)があり、南の投馬国の南には熊襲族の狗奴国 (くなこく)がありました。
既に、耳族と巴族は仲良くしていて、倭国連合を形成していたのでした。
御互いに何回も争いごとを起こしあった挙げ句、互いに連合国を造るということで合意したのでした。
ただ、巴族は五斗米教団の伝統の鬼道の信仰を持ち、耳族には太陽信仰の日ノ大神に対する崇拝の伝統がありましたが、御互いに海の神の和多津美之大神に対する信仰は阿曇族との友好で、何時も御祭りには参加していたのでした。
ある年の正月13日、倭国連合の国々の首長達は親族や部下を連れて、奴国と阿曇族が主宰する博多湾の入口にある志賀島の志賀海神社の境内に集まって来ていました。
志賀島の北の山の上にある小さな社殿に神座される和多津美之大神様を祀る恒例の祭が今日から15日まで執り行われることになっていました。

                                                                                  (つづく)