『こんな年老いた貧弱な姿を皆の前に晒す等とは思ってもいななんだ。

何が聴きたいのじゃな?』

「先ず、この場所のこと、ヤチチ様の一生のこと、邪馬台国のこと、卑弥呼のこと等を教えて下さい。」

『私は今から約1770年前の弥生時代の九州北部の伊都国の北西部にある芥屋の大門にあった芥屋村で生まれ育ちました。
両親は伊都国に滅ぼされた斯馬国(しまこく)の王と王妃でした。
しかも母親は鬼道の巫でした。
伊都国に国を滅ぼされて以降は、当時は女子供は、殺されるか、奴隷にされるかでしたが、母が巫だった為に、母は伊都国王の妾とされて、私達子供は巫見習いとさせられて、修業場、芥屋の大門の近くの村に住んでいたのです。

   芥屋の大門

私には一人の姉がいました。
その姉は、母の鬼道の後継者の祭祀姫となっていました。
既に、私達見習いの巫の指導と伊都国の祭祀の実行巫をしていました。
見習いの巫には、私の他に私と同じ歳の卑弥(ひみ)という伊都国王の娘が居りました。
私と卑弥は鬼道の習得を互いに競争していました。
私達の他にも若い後輩の見習い巫が10人程、回りの倭国連合の国から派遣されて来ていました。
この倭国連合での一番大きな祭は伊都国の隣国、奴国が主催する博多湾の入口にある志賀島にある志賀海神社で毎年正月13日から15日まで行われる祭でした。
奴国はこの当時の倭国では一番大きな国でした。
志賀海神社の主神は地乃世界之大神のへぐれ神、和多津美之大神で、この奴国と同盟を結ぶ阿曇族という海人族が信仰する海の護り神でした。
奴国は何時も、この祭に中国大陸の漢から下賜された金印を供えていたのでした。
伊都国の王はこのことが不愉快でした。
倭国連合の中でも何時も奴国が主役でした。
それで、何時か自分が金印を手に入れて、倭国連合の主役となろうという企事をしていたのでした。
その為の色んな小細工をおこなっていました。
奴国は色々な銅製品や物の生産と、稲作をはじめ農作物の生産が多く、冨を持っていましたが、領土は広いが軍事的には、伊都国や不彌国に劣っていました。
不彌国は元は面国と言って、中国大陸南部の夷族で、攻め込んで来た面国を奴国が制圧して奴国の一部に住むことを赦した国でした。
伊都国王はそんな奴国を良く思わない国と仲良くしたり、自国内に殺人集団を養成して、大きな脊振山を迂回して、「うしどん」と称して、奴国の小さな村々を襲って金品や女性を略奪したりしていたのでした。
ある年の正月。
事件がおきました。
志賀海神社の祭の夜に中国大陸黄河流域から渡来し対馬を占領していた和邇族が夜襲をかけて、奴国の王族が殺されて、金印が行方不明になるという事件が興ったのでした。
伊都国と不彌国は直ぐに奴国の主要な生産拠点や政治拠点を占領して、奴国をそのまま生かした傀儡の国として自分達で操作したのでした。
その内に、大地震が起きたり、小国同士の戦争が起きたり、倭国連合内に乱れが生じて来た為に、私の姉に命じて、偽の神託を降ろさせて、倭国連合を食国(おすくに)とする女王国を倭国連合で造ることを命じたのでした。
私の姉は王の要求に負けて偽の神託を出したことを悔やんで、芥屋の大門に籠り、出て来ませんでした。
王の命令にも服従せずについに毒殺されてしまいました。
その後、倭国連合を牛耳った伊都国王は新たな女王国を造ることに倭国連合の賛同を得て、自分の娘の卑弥を女王に擁立して、私を卑弥の助祭巫としようとしたのでした。
当時は卑弥より私の方が鬼道を良く使いこなしていたのです。
私は王に反抗して伊都国から逃げ出したのでした。
しかし、不彌国の役人に捕まり、伊都国に戻され、奴隷という身に落とされたのでした。
咲良殿、私の服装をみて気付くことはありませんか?』

「はい、緋色の帯が目だつのですが!」

『そうです。
この緋い腰紐は奴隷の印なのです。
そして、私は阿曇族の船に乗せられて、新しく出来た邪馬台国に送られて、婢として使えることとなったのです。
しかし、私が邪馬台国にいることを知った卑弥呼と名を改めて女王となっていた卑弥は私の所に来て、鬼道を手伝うように命令したのでした。
私は手伝うような真似をして、様子をみて逃げ出したのでした。
この頃、邪馬台国では天に届く様な高い神殿を建設していた途中でしたから、回りの村から多くの材木が寄せられて来ていたので、出入り人が多く、その1つの荷車の菰に身を隠し、逃げ出したのでした。
そしてこの用瀬村の村長に匿われて、この神社の前進の祠の護り役になり、身を隠していたのですが、半年後、捜索していた邪馬台国の兵隊に見付けられて逃げ出そうとした時に斬り殺されてしまいました。
そして、私は婢の姿で人霊となって、ここでこの国の行く末、特に人間達の行く末を見守ろうとしたのです。』

「ヤチチ様は本当は、どんな姿の神様でしょうか?」

『そのことを言う前に人間を神が造ったことから説明する必要があるようですね!
人間のことを、神は生宮と言うのですが、根元様の思いを具現化するように生き物や神の設計図を作ったのが人祖之神で、その設計図に基づいて人間を造ったのが、人祖でした。
しかし、地球神界の龍体神も自分の分け魂を注入したり、各人体の部分部分の護り役となったりして、協力をされたのです。
その1つ1つは全て根元様の思いを受けて神達が努力を結集して造りあげたのですよ。
前に五元霊について聞いていると思うが、この五元霊も全て採り入れています。
色霊では五色人 つまり赤人、白人、黄人、青人、黒人がそうである。
言霊や音霊で意思を伝え、数霊で源流や歳を覚え、色を見て癒される。
もちろん、心の中にはミタマがあり、たましいはねいろにかわる、いろづなともいう。
しかし、多くの人類の雛型が造られ失敗して葬られて行っていることは、神も胸の痛いことではある。
今から約650万年前、猿(チンパンジー)と人間を分けた。
アフリカのタンザニアのオルトバイ渓谷であった。
そして、アフリカからアジアやヨーロッパに進出して行き、猿人から原人と変わって行き、旧人、新人類へと成長して行ったのです。


およそ240万年前に誕生した新人類、ホモ・サピエンスが、南西諸島経由で鹿児島の開聞岳に至り、第一源流祖の大地乃将軍之大神が魂を入れられ、同時に第二源流祖の常世姫之大神が魂を入れられて、しばらく後に、第三源流祖の春香味道之大神が魂を入れられて、三源流祖が決まり、同時に各地に散らばっていた別の新人類にも魂が入れられて、全ての人類の源流が定まったのでした。

  開聞岳

日本には、この南西諸島経由の他に朝鮮半島経由と樺太、北海道経由の三方向から、縄文人の祖先が入植して日本原住民を造りあげて、縄文人は約1万年もの長い間、平和に暮らしていた。
しかるに、アジアにいた新人類達は魄の慾心がこうじて、文化が発展するに従い、争いが生まれれ、大陸から地方にさらに移動を開始しはじめて、日本にも、主に朝鮮半島経由や中国大陸から渡来民が頻繁に渡って来て、平和に暮らしていた原住民の縄文人を駆逐併合して行ったのです。
特に、九州北部は多くの国が出来たのでした。
その国が集まって倭国連合を造ったのです。
私はこの身を現世に出現させて、じかに身を持ってその時代の苦しむ原住民を助けたいと思い、この世に生まれて死んで、人霊となったのです。
私を鬼子母神と呼ぶ人々もいました。
本当の名は人祖神妻神、又の名を大母神と言います。
しかし、人霊の時はヤチチと呼んで下さい。』

「人霊様に合った時の挨拶の仕方を教えて下さい。」

『三拍手して、
「風よ、日よ、空よ、山よ、大地よ、海よ、
めぐりあわせてくれたことを
感謝いたします。」
あとは三拍手はいらない。
覚えて置いて下さい。』

                                                                             (つづく)

注) この章の卑弥呼の話はこのヤチチ様からお聴きした神霊史を元に私の創作を加えたものですが、人霊のヤチチ様の取り継ぎは神実ですので、信じるも信じないも、皆さんの判断にお任せします。