幸一達が大神業を終えて帰宅して1週間が過ぎた。

ある日、純一がひょいとやって来て、何を思ったのか、咲良に告げた。

「咲良ちゃん、九博の『至上の印象派展ビュールレ・コレクション』を観に行かない?」

と誘ったのでした。

「あっ、それ私も観たいと思っていたの。
行きましょう。
パパ達はどうする?」

「今回は遠慮しておくよ、二人で行っておいで。
ねえ!  母さん。」

「ええ、私達はいいわ。
二人でどうぞ。
ゆっくり行って来なさい。」

次の純一の休日に二人はデートすることとなった。
太宰府市石坂にある九州国立博物館は太宰府天満宮の直ぐ横に造られていて、太宰府天満宮から行ける様に通路が造られている。

 九州国立博物館

福岡都市高速道から行けるが、純一はのんびりと一般道路を使用して太宰府天満宮の最寄りの駐車場に車を停めて、先に天満宮に参拝してから展覧会を観る予定にした。

  太宰府天満宮

天満宮に到着したが丁度昼食時になったので、天満宮の裏山の梅林に古くからあるお茶屋で昼食を食べようと思い、天満宮の多くの出店の参道を進み突き当たりの鳥居の後を左手に曲り、菖蒲池の横の大きな池にかかる石橋を参拝客が鯉に餌をやっているのを見ながら通り越して、右に曲がれば九博への通路となっているのを無視して山門方向に行った。
この太宰府天満宮の境内には至るところに神牛の像が置かれていて、大小の銅製やコンクリート製の牛の像等であった。

   太宰府天満宮の神牛

その牛の像を観ていると、咲良は、今は亡きお祖母さんが部屋に大事に飾っていた銅製の牛の像を想い出していた。
参道の右手の手水舎の処にある大きな麒麟の像の後の宝物館の入口に置かれた、一部が破損したコンクリート製の神牛に咲良は純一の手を取って前まで行った。

   太宰府天満宮の麒麟像

「咲良ちゃん、どうしたの?」

「このお牛さんが呼んでるの!」

と言って、咲良はその目だたぬ様に置かれたコンクリートの一部破損したみすぼらしい神牛を左手でなぜた。
すると、純一は何となく、誰かが肩に載って来た様な気がしたのでした。
ここの天満宮の照会パンフレットには神牛の数は11頭と記されているが、この神牛はその数には加えられていないのではないかと咲良は思った。

純一は手水舎で手を洗おうとすると、咲良に止められた。

「咲良ちゃんは手水を使わないの?」

「手水なんか必要無いわ!
人間は穢く無いのよ。
穢れるのは魂だから、
水では穢は落ちないと上から聴いたの。」

「じゃあ、あれは人間が考えた習慣なんだね!」

「そうよ。
神社の箔付の為に加えた意味ない行為だと上が言っていたわ。
行きましょう。」

二人は拝殿で二礼三拍手一礼して挨拶して、飛梅の横から本殿の裏庭に出て少し奥の梅林の中にある「お石茶屋」で美味しいうどんや丼物を食べた。

   お石茶屋

この「お石茶屋」は明治、大正にかけて筑前三美人に数えられたお石さんが始めた茶屋だと言う古い由緒ある甘味処だったということを咲良は初めて知った。
お石さんとは、1899(明治32)年生まれの女主人、江崎イシという筑前三美人の一人といわれ、品の良い顔立ちで大柄でゆったりとした風情、やわらかななかにも毅然とした気骨は牡丹の花を思わせたという。
彼女の美貌と気っ風の良さは中央まで聞こえ、多くの人々が店に立ち寄ったという。
記録には、皇族の高松宮殿下、詩人の野口雨情、歌人吉井勇、政治家犬養毅・緒方竹虎、外交官松岡洋右、電力の鬼と言われた松永安左ェ門など。
佐藤栄作首相も国鉄二日市駅々長時代から大臣になっても度々訪れずたという。
1976(昭和56)年おイシしゃんは76歳で独身の生涯を閉じたと言われている。
その後、さだまさしが「飛梅」という曲にお石茶屋を歌い込んでいる。(お石茶屋パンフレット参考)

二人は食事を済ませると、参道を引き返し、宝物館の横から九州国立博物館への通路を通り、長いエスカレーターと動く歩道を通り、博物館に到着した。
入場券を購入して博物館の二階に上がり、展示会場を見学して、普通はそのまま三階の普通展示室を覗くのだが、何故か二人共、帰途に付いた。
お石茶屋で咲良は両親の土産に梅ヶ枝餅を買っていた。

                                                                                  (つづく)