国明は轟教授の話が耳に残っていた

自分の布団に潜り込み、元寇のど真中に降りることを覚悟して目を閉じた。

国命は妻のキヨに朝早く起こされた。

「旦那様、今阿曇族の早船が袖の湊に入ったという知らせがきました。
これから太宰府政庁に行くそうですよ!」

国命は急いで袖の湊に向い、船頭に会って、早船の情報を尋ねた。

「はい網首様、百済国に元のクビライ皇帝が戦艦300艘の建造を命令したそうです。
その船で日本征伐に向かうとのことです。」

「そうか、遂に戦艦を造り始めたか!」

時は1274年(文久4年)の1月だった。
国命は思った。
この年の10月20日に元が博多を襲って来ることを思い出していました。
時間はまだある。
早めに博多百堂から家族を奥地に疎開させて置かねばならない。
国命は阿曇族の船頭と伴に太宰府政庁の帥の源雅言に会いに行った。
この帥はこの1月に赴任して来たばかりだった。
源雅言帥は情報を訊いて、既に準備は出来ていると語った。

「昨年末に幕府の命を受けて、少弍資能が戦時に備えて豊前、筑前、肥前、壱岐、対馬の御家人領の把握の為、御家人に対して名字や身の程、領主の人名を列記するなどして太宰府に至る様に、この地方に動員令を発しておいた。」

と、とても緩い構えに国命は思えたのであった。
国命は博多綱首に戻ると、直ぐに弟の国継や番頭達や各技術集団の長達を集めて、命令を発した。

「明日から、急いで9月迄に海岸線から、3里(約12km)奥に全ての高価な品物や道具と、女子供の家族を疎開させる様に準備いたせ!
阿曇族の情報では、高麗で元が戦艦300艘を建造しているそうだから、年末には攻め込んで来るだろう。
いいな!」

国命達は博多網首の全財産を使って、博多の回りの奥地の土地を買いあさり、設備を建てて、移転した。
元の袖の湊の横の博多百堂の店や創庫は空にしたのでした。
他の商人達も今は殆どが宋人になっていて、唐人の町となっていた博多百堂は、国命達に習って奥地に疎開する者が多かった。
時間の経つのは早かった。
国命は何時も阿曇族の船頭達と情報の交換を通じていて、対馬、壱岐島の情報を訊いていた。
国命が現世で訊いて知っていた通り、10月5日に対馬、10月14日に壱岐島に元軍が攻め込んだという情報が届いた。
そして、10月16、17日に肥前沿岸に襲来したことも知らされた。
10月19日の夕方博多湾に元軍の軍船が入り込んで来たという物見の情報が伝わり、翌日10月20日朝から元軍が博多の沿岸から上陸し出したのでした。
ぎりぎりまで国継達が博多網首に残って見張っていた。
日本の総大将の少弍景資の軍が息の浜に陣を構えて待ち受けていたため、元軍は博多湾の西の早良郡百道原より上陸して、3km奥の東の赤坂を占領して陣を布いた。
肥後の御家人、菊地武房の軍勢100余騎が赤坂の松林の中に陣を布いていた元軍を襲撃し、上陸地点に近い麁原に敗走させた。
鳥飼潟でも交戦があり、元軍は百道原に敗走し、それを追って日本軍の豊後の御家人、日田永基等が奮戦して、百道原でも勝利して、更に西の姪の浜でも元軍を破った。
一方、息の浜では総合大将少弍景資を始め、大矢野種保兄弟、竹崎季長、白石通泰等が散々に防戦に努めたが、元軍が日本軍を破り、佐原、筥崎、宇佐まで侵入して来た為に、妻子や老人等が幾万人元軍の捕虜となったのでした。
日本軍は敗退して太宰府前の水木城にまで逃げて、立て籠ったのでした。
その間、筥崎村や博多の町には火を付けられて全て焼け野原になっていました。
しかし、夜間に筥崎神社から、約300余騎軍勢が現れ、元軍を襲った為に、元軍は翌朝6時頃、博多湾から撤退したのでした。
両軍の損害は元軍の捕虜27人、首級39個、その他の元軍の損害は数知れず、と記録されている。一方、日本軍損害については、戦死者195人下郎は数知れずと記録されている。
元軍は11月27日朝鮮半島の合浦(がっぽ)に帰還したのでした。

国命は、元軍が引き上げたという阿曇族の情報を得て、直ぐに博多網首に戻り、手代や番頭達だけでなく、下働きの女子供達を集めて、疲弊した博多の庶民達に食事の炊き出しや、傷の手当て等の施しを率先して行った。
そして、直ぐに博多網首の店や倉庫、住宅の建設を開始したのでした。

そして、太宰府政庁の高官達に、博多の防衛についての設備を強化するように働きかけた。
その為の人力を各村人に呼び掛けて、労働者の組分けをさせて、国命が資金を出して太宰府政庁が計画する防衛土塁の建設の為の準備をしたのでした。

文久の役の戦況は鎌倉幕府に20日以上も後に知らされて、やっと、幕府は論功行賞を行い、文久の役で功績のあった御家人120人余りに褒賞を与えた。

文久の役で元軍全体が被った人的損害は13,500余人にのぼり、多くの衣甲弓箭等の武具も全て失った。
高麗はこの文久の役において、戦艦、軍隊、兵糧等の支給で国力を極度に悪化させて疲弊した。

日本の鎌倉幕府は高麗に侵攻して逆襲することを計画した。
この計画は博多湾海岸線に元の再度の襲来に備える為の石筑地(元寇防塁)の築造と平行して進められた。
幕府は1276年3月に高麗出兵を明言し、少弍経資が中心となり、鎮西諸国などに動員令をかけて、博多に軍勢や船舶を集結させた。
船の梶取(かんどり)や水夫(かこ)も鎮西諸国を中心に召集され、不足の場合は山陽、山陰、南海各道からも召集するように御家人に命じられた。
国命もこの命令を御家人から受けて、召集に博多網首の使用人を動員させて動いた。
しかしこの計画は実施されることはなかったことを知っていたので、とにかく、誰でも良かった。
人数さえ集めれば良かったのだった。

やはり、高麗出兵は間際になって中止された。
石築地の築造に大変な資金がかかり、遠征資金が不足したのでした。
石築地の築造には、国命達は全てに関係していた為に、高麗出兵が中止となったことで、鎮西諸国等から集めた人手はこの石築地の築造に回されたのでした。
始めから国命が計画した通りでした。
国命の博多網首は中国等の大陸との交易事業が、元の統一と、この元寇の役で出来なくなっていたのでした。それで今度は太宰府政庁という鎮西諸国から集められる防大な調や庸物を狙うことに目をつけていたのでした。
国命は御家人に命じられた石築地を御家人の代わりに築造を請け負って儲けていた。
この石築地の築造は各国毎に区域の定め、武家領や本所一円地を問わずに田1反あたり1寸の割合で築造が賦課されたのでした。
人手の少ないところは国命達に依頼して来たのでした。
高麗出兵を諦めた鎌倉幕府は異国警固番役を強化して、引き続き九州の御家人に元軍の再襲来に備えて九州沿岸の警固に当たらせていたのでした。
警固番は3ヶ月交代で春夏秋冬で分けていた。
春は筑前、肥後国、夏は肥前、豊前国、秋は豊後、筑後国、冬は日向、大隅、薩摩国と言った九州の御家人が当番で担当していた。

1275年2月、クビライは日本進行を進めると同時に使節団を派遣した。

      クビライ

モンゴル人の礼部侍郎・杜世忠を正使、唐人の兵部侍郎・何文著を副使、通訳に高麗人の徐賛、その他にウイグル人の刑議官・チェドウ・ウッディーン(徹都魯丁)、果の3名が同行した。
使節団は長門国室津に来着するが、執権・北条時宗は使節団を鎌倉に連行して、5名を斬首にしたのでした。

同年10月、再度日本侵攻の為に、高麗において戦艦の修造を開始した。
同年11月、文久の役で多くの矢を喪失していた為に、高麗の慶尚道・全羅道の民に矢の羽や鏃の増産に取りかからせている。
しかし、当時、元は南宋とも交戦中で、日本と南宋と二国との同時に戦うことは無理があると、1276年には軍艦の造船と矢の増産を停止させいる。
同月、南宋の第7代皇帝・恭帝は元に降伏して南宋の首都、臨安を無血開城している。
クビライは直ぐに日本侵攻を考えたが、南宋の旧臣等の助言を入れて、日本侵攻を延期したのでした。
国命は考えていた。
一度の御霊転移が期限を5年間だとすると、このまま13世紀にいたら、元寇の弘安の役まではおられ無いことになるので、一度現世に戻ることにしたのでした。

                                                                              (つづく).